自民党 憲法改正草案が鮮明にする教育の差異
☆というのも、人類普遍の原理と言えば、「自由、平等、友愛」ということを示しているにもかかわらず、基本的人権を前文で書いていないとまで自民党の改正パンフでは述べられているが、人類普遍の原理は、自然権として現実の基本的人権にはまだ表れていない人権まで包括されている。
☆むしろ、そこから新たな人権を汲み取る未規定性が担保された潜在的人権の泉である。それを削除するというのだから、何を考えているのかと不思議に思う。
☆しかし、戦後の公立学校内の葛藤において、人類普遍の原理がマルキスト的には権力に対峙する武器として使われてきたという点だけみれば、その意味の文言を一掃するというのは、了解できなくもない。
☆しかし、結局明治の民法典論争でフランス民法を排除した価値観がそこに忍び込んでいることに間違いはない。
☆吉田松陰の最年少の門下生山田顕義が踏ん張るも、「自由、平等、友愛」はフランス革命やアメリカ革命のスローガンとして、危険だと誤解されたのだろう。捨てられてしまったのだ。
☆しかし、この「自由、平等、友愛」は、フランスやアメリカという国に限られたローカルルールではない。人類誕生以来、人類が人間存在を回復する歴史的原理であり、あるいは、人類が人間に成る基準であり、それゆえ普遍的原理である。
☆今のところ、リバタリアニズムにしても、リベラリズムにしても、コンサバティズムにしても、コミュタリアニズムにしても、この人類普遍の原理を拒否することはない。もちろん、原理をどのように理解するかは違う。いずれにしても、この意味で、私立学校は、明治創設以来、人類普遍の原理を大前提にしてきたのだ。
☆実はナチズムでさえ、この原理を否定するものではない。ただし、人類の範囲を歪曲しているところが、結果的にこの原理を否定しているから許しがたいわけであるが、大前提としてここから出発する。
☆だからこそ、適正手続きが必要だということになる。プロセス評価が重要だということになってきたのもそこに理由がある。
☆しかし、自民党は、その大前提を真っ向から否定する。果たしてグローバル社会で支持されるだろうか?
☆いずれにしても、この明確なノーが、上記の図で表現したように、現状の公立学校と私立学校の教育における差異を顕在化したわけである。
☆これは憲法改正草案が明確にしただけで、今までもそうだったのである。ただ、戦後は教育基本法に象徴されるように、公立私立問わず、第Ⅰ象限か第Ⅳ象限にあったという幻想があっただけである。
☆それゆえ、本当は、公立学校内の葛藤は、第Ⅱ象限と第Ⅲ象限のポジショニングをめぐる闘争であったのに、第Ⅳ象限の中の対立構造に重ねられてきたのである。特にメディアはそうである。
☆しかし、今回の自民党の憲法改正への動きは、第Ⅰ象限の存在を明らかにしたという点で、大きな功績がある。
☆今までは、人類普遍の原理というコンセプトの内容が論じられずに、各人の理論武装の盾あるいは意匠として使われてきたので、第Ⅰ象限に存在する私立学校も、第Ⅳ象限に引きずり落とされてきたし、第Ⅱ象限、第Ⅲ象限に位置してきた公立学校も、第Ⅳ象限にいると幻想を抱かされてきた。
☆再び、戦後の原点に戻るときが来たということなのである。自民党の今後の活動は、その突破口をつくることになる。パラドキシカルで実におもしろい。
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