アクティブラーニングで世界は変わらない
☆特にアクティブラーニングの広がりに注目している。この広がりはある程度歓迎する。しかし、どうも腑に落ちないのは、あれだけ総合学習が忌み嫌われたのに、同じ手法のアクティブラーニングがこれほど注目を浴びるというのは、単純に時代ということだろうか?
☆それも大いにあるだろう。20世紀末のIT革命が政治経済・市場に与えた影響は大きく、組織変革が唱えられ、ピラミッド型からネットワーク型にシフトするパラダイムチェンジの話題が盛り上げっていた。
☆そのとき総合学習が教育行政として取り入れられた。MITメディアラボのシーモア・パパート教授のexplore・exchange・expressを3E学習として多くの公立学校が学んだ。
☆しかし、シーモア・パパート教授は3Xと自分では呼んでいた。Xという未知数を強調したのに、日本ではそういう意識がなかった。
☆アクティブラーニングも、日本語では「能動的学習」とか「積極的学習」とか訳されている。またまた3Xを3Eと読み替えてしまったあやまちをおかしている。
☆このような訳語の意識では、モチベーションはアップしない。モチベーションを上げるんだぞと言われて上がるようでは、まったく自立していないというパラドクスになってしまうからだ。
☆日本の教育では、議会と評議会の区別が意識されていない。アクティブもパッシブと対になったとき、パッシブの方が権力の覇権をとっている社会構造になっているという意識が隠されている。
☆つまり、パッシブが権力の覇権を握っているような社会では、アクティブになることはそのような社会的構造を強化するベクトルにしか働かない。世界なんか変わらないし、授業改革で組織を変えるなどということもない。
☆構成主義的学習とは、本来目の前の社会構造の関係の中で、学習者がどのような位置づけに強いられているのか振り返り、そこから問題をどのように超えていくか考え行動する高次思考をトレーニングする学びである。
☆自分が鉄鎖につながれているという意味で関係に投げ込まれているという実感がわかれば、そこからどうしたいのかモチベーションは内燃する。結果的にアクティブになる。それはパッシブ権力構造の中で歯車としてアクティブになるのではなく、そのような権力構造をどのように解体するのかというメタアクティブということ。
☆これが労働でも仕事でもなく活動なのだというハンナ・アーレントのコンテクストになる。アウシュビッツの中でアクティブになってどうするのだ。しかし、フランクルはメタアクティブにはきっちりなったのである。
☆なぜ社会は混迷するのか?一部の超富裕層がパッシブなのに、中流以下はそのためにアクティブを強いられるからだ。
☆真の公僕(この訳語自体問題だが)は、権力によって疎外される子どもたちを身をもって守り抜く使命を有しているはずだ。アドルフ・アイヒマンになっては困るというのは歴史が証明している。
☆さんざんアクティブラーニングを紹介しておきながら、そのことを問い返す編集がリクルート流儀。今回も巻頭言「希望の道標」で、そのことをナチュラルに問うている。実におもしろい。
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