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IB以上の教育を時代は求めている

☆大迫先生の「国際バカロレア入門」を読み返して、改めて思うのは、IB機構自身が、西洋二元論教養主義の限界に気づいていることである。

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☆方法と内容、表象と内容、言葉と思想、知識と思考、精神と肉体、自然と社会、社会と個人、理想と現実、理論と現実・・・・・・。

☆これらは、二元論間の関係をどのようにとらえるかで、プラトン以来、多様な議論がされてきた。その議論の整理をIBのディプロマ、特にTOKで行っているし、10の学習者像は、その関係の均衡点をどうやってつくるか学び続けるインターナショナル・マインデッドネスをベースにしている。

☆しかしながら、IB機構自体が、この西洋的二元論が、解決できないところに、戦争もテロも、格差など世界の痛みを解決できないことに気づき、なんとかしようとリフレクションしている。

☆何せ、10の学習者像にリフレクションできる人という項目がはいっているのだから、そうなるのは必然なのであるが。

☆それがゆえ、今回の日本語によるIBは、西洋的価値観と東洋的価値観の融合ができるという、いわばIBイノベーションを創出できると大迫先生は目論んでいる可能性が、本書の最終章へと読み進んでいくにつれ、明らかになってくる。

☆ということは、時代は現在のIB以上の教育を要請しているということなのである。

☆ところが、IBによってIBイノベーションというのは、なかなか難しい。湖にはまって、自分の髪の毛を自分でひっぱって抜け出そうというようなものなのである。

☆だから、日本語IBはIBにとっては外の風だという話なのだろう。

☆しかし、サイードではないが、すでにオリエンタリズムに陥っている日本は、西洋二元論の尺度に合わせて、東洋文化を規定しているから、見た目は違うが、真理性は西洋二元論の枠組みにはまっている。

☆とくに日本の近代教育制度は、要素還元主義であって、教科横断的発想はない。

☆いやそんなことはないと言われるかもしれないが、本来横断的とは、二元論を脱構築しようという次元の話で、二元論の中のロールプレイを融合しようという話ではない。

☆そこからではないかという話がすぐにもでるが、そこからはじまって、今のIBのような複雑なプログラム、複雑な評価方法に戯れているうちに、二元論の次元で融合を議論していることに気づかなくなってしまう。

☆時代は、学びのコスモポリタンを要請している。IB普遍はローカル普遍に過ぎない。

☆かといって、IB以上の教育があるのか?実はある。ただ、言語が英語でないので、世界で評価をなかなかうけていないということはある。

☆ここは突破しなければならないことである。

☆少なくともIBの教育の質を担保しつつも、西洋二元論的価値化から脱する学びを構築しなければ、アジアの国々は、シンガポールのような道を歩まねばならないだろう。

☆オリエンタリズム。東洋自虐史観。中国と日本の葛藤を歓迎する発想は二元論的葛藤主義の罠である。

☆これは西洋二元論の無意識のトリックである。フロイドが解いたのだが、このエスの存在を芸術的エネルギーとしてマネジメントできると考えているのが米国の経済主義である。

☆グローバル教育とは、ここを突破するといころに希望を見いだしたいところではあるまいか。

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