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国際教養大学の本音(補説)

☆国際教養大学に対する私の違和感と重なり合う考え方が「日経ビジネスONLINE2013年10月28日(月)」で別角度から掲載されていたので、参考になるかもしれない。

「僕が東大から米ブラウン大学に移った理由~日本にいたらグローバルな人になれないなんてことはないはずです。」

☆高校卒業後、東京大学に進学したが、1年生を終えた後、米ブラウン大学に移り、今年9月、同大学の3年生になった植村昴央さんのインタビュー記事。植村さんはこんなことを言っている。

基本的に米国と日本は教育の考え方がすごく違うと思います。ざっくり言うと、日本はある知識をちゃんと習得して、それを正しく再現できるかが問われる。例えば哲学の授業でカントをやれば、カントはどういう考え方をした人かを学んで、「こういうことにアプライできますね」という感じ。一方、米国では、そのカントに関する知識を所与のもとはせず、その得た知識をベースに「あなたはそれを使ってどう考えるのか」「なぜそう考えるのか」といった点を必ず聞かれる。どちらがいいかは別にして、そこが決定的違うと感じます。

☆この発言は、多くの留学生が語るものと同じである。いわば定番。タキソノミー的に一般化すると、「アプライ」できるまでの日本の教育はレベル4までで完結し、米国ではレベル6まで追求する。

☆しかもタキソノミーをリニア階層構造として使うのではなく、つまり、カントが書き上げた本の読解から進むのではなく、カントが本を書く前に悩んでいたのと同じ問いかけから考え始める。だから、レベル5→レベル6からいきなりはじめ、あとから興味と関心があれば、カントはすでにどう言っていたのか既知の知識をリサーチするというレベル1に立ち戻るという循環型。

☆これをリベラルアーツというのだろう。もちろん、植村さんは、複眼思考ができるレベル6に達している賢者としてこうも語る。

米国でも授業がおもしろくないというのは聞くし、従ってドロップアウトも出てくる。やはり要は本人がどいういう目的意識を持っているかということではないでしょうか。その意味で、僕は(学ぶ)場所で決まるものではないと思います。

☆すなわち、循環型の思考ができるかどうかは、日本にいようが米国にいようが関係ないと。ただし、制度としては日本には、だいぶ近いものは出てきたが、まだまだ米国のようにはいかない。独学のススメになるのか、留学なのか、それは本人の問題であるということか。

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