好き勝手学校選択論(3)
☆コミュニケーションの続き。説明会でコミュニケーションが大事です。家庭でのコミュニケーションが特になんて平気で言うところも注意されたし。
☆コミュニケーションをいっしょにがんばってとっていきましょうという学校はすてきだ。このような微妙な違いが、6年間、3年間たつと大きなダメージになっている。
☆スキーをしにいったときに、傾斜15度なんてたいしたことないと思うかもしれないが、上から滑ると直滑降って感じである。微妙な差異こそ見逃さないようにしたい。
☆コミュニケーションが大事ですまでは、もちろんよいが、それで授業が一方通行的なものばかりというのは理想と現実のギャップがありすぎである。
☆いやあカリキュラムをこなすので精いっぱいで、議論なんて挿入できませんよって平気でいう教師。
☆逆に議論すれば生徒のモチベーションがあがるんですよ、目が輝くんですよという教師。
☆そのどちらも一方向だ。生徒不在であるのには変わりない。
☆議論をしなければ一方通行的授業というわけではないだろう。議論をしていれば双方向的授業であるわけでもないだろう。
☆世界観を創造したり、共有する努力をしたり、創っているはずの世界にからめとられているパラドクスに思い悩んだり・・・。それは形式上一方通行か双方向かで決まるものではない。
☆IBティーチャーのように10の学習者像やブルームのタキソノミーなどのクライテリアを生徒と共有し、照合しながら世界観を作ったり束縛に悩んでいるしている内的対話を含めて議論できればよいのだが。
☆しかも、その10の学習者像でさえ、教師と生徒の理解のズレがあるのは当然である。だからそのズレを軌道修正しながら、あるいは10の学習者像自体脱構築したりしながら対話をする。それはタキソノミーとて同じである。
☆それを定義がわからないとか、10の学習者像を誰か教えてほしいとか、すでに学習者像からズレているどころか大きく外れている。
☆コミュニケーションするというのに、「わからない」と言ってよいのだろうか。かつて生徒が「わかんなーい」と言っていたのとほとんど同じような気がするのだが。
☆21会で出会う先生方と話していると、その言葉はめったにでてこない。もちろん、考えてもわからないときには、すまないわからないよということになるが、めったにそれはない。
☆たとえば東京女子学園の實吉校長と話す時は、たいへんスリリングである。こちらはわからないことだらけだ。でもわからないとすぐには言えない。こちらから仮説を立てて、こう考えてみたと言うと、そこのところは違う、ではこう考えてみますかねというと、そうかもしれないがと言って立ちあがり、書庫に向かったかと思うと、戻ってきて、こういう本がるよ、どう思うと、まだ読んでもいないのに尋ねられる。
☆慌てて、もくじと著者のプロフィールをみて、また仮説を立てて語ると、ニタニタ笑いながら、今度また話そうとなる。そこで、次に行く時までに、こちらは理論武装する。
☆たしかにたいへんだが、生徒にも同じようにコミュニケーションしているわけだ。実は麻布の前校長氷上先生も同じスタイル。両先生とも麻布のOBだから、これが麻布のコミュニケーションのスタイルなのだろう。
☆八雲学園の近藤校長とのコミュニケーションも、また違った意味でスリリング。1つのテーマを語られる時、絶対に一般的内容は話されない。しかもブレナイ。話題は旬の話から教育問題まで多肢にわたるが、つねにいきなり本質に斬り込んで話される。
☆だから、こちらがブレているのがすぐに見通される。ハッとして、軌道修正しながら一貫性を保とうとするが、その難しさはかなりのものである。自分がいかに劇的なる生きざまをしていないか思い知らされる。
☆それを八雲学園の先生方は毎日経験しているのだ。そして実は生徒もそうなのだ。私と違うのは、思い知らされている暇がないこと。自分たちも劇的なる生きざまを歩き始めているのだから。訪れるたびに、圧倒的なコミュニケーション力に感服して帰途についている自分に気づかされる。
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