道徳の教科化を行うには宗教教育が不可欠だから、憲法上困難
☆朝日新聞2013年11月12日05時00分 によると、
文部科学省の「道徳教育の充実に関する懇談会」(座長=鳥居泰彦・慶応義塾学事顧問)は11日、小中学校の道徳を教科に格上げする報告案をまとめた。文科省は、12月に懇談会の報告を受け、年明けにも中央教育審議会に諮問し、15年度から教科化する日程を検討するが、教科書を使い、記述式で子どもを評価するという報告案の実現には問題が多い。
☆憲法上宗教教育は、公立学校ではできない。よって道徳の教科化は無理だろう。なぜか?
☆過去の歴史に学ぶならば、文科省がコントロールする公立学校に道徳が入り込むと、国家道徳になりかねないリスクがある。
☆問題はそこなのだ。道徳不要などというつもりは毛頭ない。そうではなく道徳が抑圧強制力になるのをどのように回避するかというソリューションをいかにつくるのかということなのだ。
☆道徳は法と宗教と密接な関係を持っている。だからその関係を教師は学び直さなければならない。
☆しかし、その程度だと知識としての宗教であるから、宗教教育ではない。よって、大丈夫だと思われるだろう。
☆ところが、知識としての宗教で、道徳の正当性、信頼性、妥当性を評価しなければ、グローバルスタンダードなモラルの話にならない。
☆そうでなければ、空気に呪縛される暗黙の強制力、同調強制力を排除できない。
☆どういうことか?実は、道徳の最高ルールは宗教の普遍的な黄金律なのである。聖徳太子の十七条の憲法の17条目にそれは書いてある。
☆この仏教と切っても切れない宗教性を、現行憲法上持ち込むことはできないのである。
☆J.S.ミルの功利主義でさえ、最高ルールは聖書の黄金律だ。
☆このような観点を無視した道徳は、かならず抑圧的強制ルールに転化する。それは歴史を顧みれば明らかである。
☆実は日本の民主主義がどうも中途半端な感じが否めないのは、この黄金律を議論の最高ルールに設定できないからだ。
☆聖書に誓って正しい政治をやることを宣言する米国とは、そもそも社会のルールが違う。
☆どうする日本。私学化、民営化しかないというのが保守本道といういことか。道徳の教科化の行方は、日本の政治経済の方向性を決める決定的な事件なのである。
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