佐藤学氏 学びの共同体で「学校を改革する」
☆また、違いを明確にすることで、現状の制度で、公立学校ではできないことを、私立学校が最初のペンギンとしてコミットメントすべきことが何かはっきりする。
☆などの話になった。しかし、講演を聞いていない私には、その輪郭について議論できなかったので、後日ブログにでも感想を書いておきますで、いったん話は終わった。
☆今回の講演の中身は、概ね「学校を改革する――学びの共同体の構想と実践」(2012年7月5日発行 岩波ブックレット842)に基づいているということだったので、それを読むことにした。
☆すると、なるほど共通する言説がほとんどであった。「公共性の哲学」「民主主義の哲学」「卓越性の哲学」「協力的学びと協同的学びは違う」「<基礎>から<発展>へ学びが進むとは限らない」「創造的・挑戦的学び(ジャンプのある学び)」「ヴィゴツキーの最近接発達領域への着目」「対話的コミュニケーションと話し合いは違う」などの言説は「外延的には」同じである。
☆しかし、もちろん「内包的には」同じ言説でも違っている。だから、「学校を改革する」道具立ては同じだけれど、使い方が違うと言えるのかもしれない。あるいは使う意味やビジョンが違うのかもしれない。
☆大事なことは、どちらが良いか悪いかではない。公立と私立で違いが生成される日本の教育システムを明らかにすることが大切だろう。公立と私立が違うのは、在校生の家庭の経済状況だけではないのかと、どこかで佐藤学氏も言っていたような気がするが、それはそうとは一概に言えない。
☆そもそも佐藤氏がそのように言うかもしれない理由は、すでにこの書の中にある。本書の中で、佐藤氏は、教育をサービスとみなしている新自由主義を厳しく批判している。
☆そして、1986以降に加熱した私立学校受験を見れば、たしかにバブルや新自由主義の影響を受けている私立学校や保護者もいる。
☆しかし、「サービス」という「外延的な」言説は同じでも、「サービス」をキリスト教的な意味での「奉仕」という「内包性」を抱いている高所得者もいるのである。
☆つまり、民主主義と矛盾しない市場の原理と民主主義と矛盾する市場社会とは区別しなければならない。しかし、佐藤氏の戦略的にターゲットにしている経済社会は、新自由主義的な経済社会とし、自分たちのプロジェクト「学びの共同体研究会」の活動とは違うのだとしてして、経済社会をすべて仮想敵国にしているのではないかと思えてしまう。
☆しかし、本書を慎重に読めば、これもまた佐藤学氏の戦術だったのであるということがわかる。
☆どういうことかというと、佐藤学氏は、生業を公立学校をベースにするしかない。すると、文科省や学習指導要領の枠という制約がある。もちろん、私立学校のように、学習指導要領をミニマムとして、それ以上教育を行うのであれば問題ないが、公立学校の現場は、学習指導要領だってかなり薄めて行うしかないところもあるぐらいだ。
☆だから、枠組みの外から学校を改革をする戦術は空回りする。現場にぴったり寄り添いながら、あるとき気づいた時には、枠を超えて教育拡大を行っていたすごいことだと思えるような教育改革のシナリオを描いているのであろう。
☆さて、そのような戦術とは何か?それが「対話的コミュニケーション」という活動なのである。
教室における子どもの「協同的学び」の導入も、授業研究による「教師の学びの共同体」(同僚性)の構築も、その活動をシステムによって、子どもと教師が一人残らず質の高い学びを追求し、公共哲学と民主主義の哲学と卓越性の哲学を、活動をとおして体得する装置である。子どもの学びの権利を実現し、教師の専門家としての成長を保障し、地域の大多数の保護者の信頼を形成する学びの共同体のヴィジョンに反対する教師も子どもも保護者もいない。公共哲学、民主主義の哲学、卓越性の哲学に反対する者もいない。このヴィジョンと哲学の実現を「話し合い」(討論と対立)なしに推進するのが、<活動システム>なのである。ただし、これらの活動システムが有効に機能するためには、一つの条件が準備されていなければならない。対話的コミュニケーションである。
☆なるほど静かな革命である。この<活動システム>を稼働させる対話的コミュニケーションの行き着く先が「学校の改革」なのであるから。この対話的コミュニケーションがハーバーマスの理論である「コミュニケーション行為」の高次レベルの活動であることはほぼ間違いないだろうが、学習指導要領ではそんな高次レベルの対話的コミュニケーションをきちんと学ぶ教科がない。
☆その環境内で、ハーバーマスがどうのこうのと表現するのは、戦術上うまくない。そこで、学びが成立する要件として学びのピラミッドを考案したのである。
☆このピラミッドの戦術は優れものである。オーセンティックな学び=教科と設定している。AレベルやIBのTOKのように、哲学もオーセンティックとして設定してよいが、それではあからさまに脱学習指導要領を宣言することになる。
☆頂点から徐々に底辺に向かっていくように対話的コミュニケーションをしていく。そうするといつの間にか「創造的・挑戦的学び」が、教科をも超えて拡大した学びになっている。このとき教科の壁を超えたイノベーティブな学校が現れる。それまでじっと待たなければならない。静かな革命。奇跡的ではない改革と佐藤学氏が言っているのはそういうことだろう。
☆すでにこの静かな革命に向かっている学校が小中それぞれ1500校以上。高校300校以上あるという。学びの共同体研究会を拠点にして、佐藤学氏がスーパーバイザーとして活躍した結果だという。
☆小学校と高校で6%、中学で17%のパイロット校ができたのだから、日本全体が静かな学校改革に着手する日は近い。グローバル人材育成という新自由主義的な政策はともかくも、変わらなければならない風も吹いているしということなのだろう。
☆ここに公立と私立の違いが明快になった。公立の理念は学習指導要領そのものである。これを無視することはできない程度ではなく、積極的に学習指導要領に則っていると表明しなければならない。
☆その点私立学校は、学習指導要領を無視はしないが、則るべき基準は、建学の精神である。静かな革命を起こす必要はない。20世紀型教育の精度を上げると宣言すれば、それで奇跡を起こせばよい。21世紀型教育を推進するというのであれば、それで奇跡を起こせばよい。それだけである。
☆しかもオーセンティックな学びは、教科に限らない。だから私立学校は独自の探究プロジェクトや哲学プロジェクトをデザインし実践している。
☆そして、最大級に違う点は。世界認識である。佐藤学氏は、学習指導要領以上の世界認識を戦術上語らない。もちろん、新自由主義を否定し、学びの共同体を標榜するのだから、根本的には唯物史観がベースの世界認識なのだろう。
☆ポストモダンの次を描いてはいるだろう。しかし、文科省は知識基盤社会の到来で未来の見通しは終わっている。だから、知識基盤社会あるいはポスト産業社会に対応できる学びのステージの表明で終わる。もちろん、それ以上を知っていて語らないだけなのではあるが。
☆しかし、私立学校のルーツは、もともと明治政府の官僚的近代日本を批判しながら、どちらかというとケインズがリスペクトしていた自然秩序型経済を形作る資本主義、あるいは渋沢栄一の「論語と算盤」やアダム・スミス的「道徳経済同一説」の資本主義経済社会に立っている。
☆つまり、1984年以降のバブル期の当時、日本が理解できなかったエンデ的、ヨーゼフ・ボイス的、アンディ・ウォーフホル的な創造的経済。
☆この経済システムが再び21世紀に召喚されようとしている今、佐藤学氏の学びの共同体研究会は、世界認識をどのように変えていくのだろうか。
☆政治・経済・芸術・自然・人間など全体の世界認識なき教育は、どんなにがんばっても教師の独りよがりになり、社会に参加する生徒の未来に有効な教育とはならないだろう。
☆学びの共同体の足場は、結局、ありし日のユートピア的社会建設と同じということにならないことを祈っている。
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