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幾つかの学校でPIL×PBLへ授業改革本格化 創造的カリキュラムイノベーションへ

☆今回のSGHや2015年の日本語IBの教育改革の流れは、世界各国のグローバル教育や21世紀スキル、米国の州共通基礎スタンダード(Common Core State Standards)などのグローバルな変化を見据えて、文科省が動いていることを示唆している。

☆それゆえ、SGHや日本語IBのモデル校のみならず、時代を見据えた学校は、ピアインストラクション型講義(PIL)、プロジェクト型学習(PBL)の授業改革促進に乗り出している。(アクティブラーニングと称されているものも流行っているが、PILとPBLという両方の手法の相乗作用を活用しようとしていない点では、アクティブラーニングという呼称を活用しているところは遅れているし、形だけ、いわゆる「なんちゃって」。これだと優れた教師の講義に勝てない。)

☆したがって、見識者たちは、SGHとかIBなんてそう簡単に進まないよと高をくくっているが、いややらない理由を探しているが、グローバル経済の動きが、そんな見識者たちの評論や権威を簡単に無化していく。

☆時代は、知識を組み合わせ/組み換えながら、新しい知識を生み出す=思考力を生み出す創造的カリキュラムイノベーションなのである。PILやPBLをやると、学力がさがるとか、知識を憶えることができないとか、相変わらず非科学的な迷信を振りまいている教員や見識者がいる。

☆しかし、そんなイデオロギーは、迷信が故にたしかに頑迷固陋だが、いずれ科学的に駆逐されるだろう。いずれといったのは、迷信を強化する偏差値評価は世の中にあるが、知識を組み合わせ/組み換えながら、新しい知識を生み出す=思考力を評価するスタンダードが今のところまだ開発されていない。

☆したがって、新しいPILやPBLの授業が、迷信教育の評価尺度で測定されているうちは、迷信はなくならない。しかし、ICTの進化は、やがてPIL・PBLを測定できる評価を開発するだろう。

☆その開発の肝は、ファシリテーターとしての教師の視点である。観点別評価があるじゃないかというが、それはまったく道徳的で、いまここで計算問題ができないという生徒、いままここでグローバルな問題に悩んでいる生徒の思考力に火をつける視点ではない。

☆PILやPBLとファシリテーターの関係について、思いつくまま述べると、

・PILやPBLは、講義の時間効率を上げる手法だから、教えるべき予定の知識を講義し終えないということはない。
・かりにそうであったとしても、PILやPBLは同じ質問に対し、全員が考える機会になるから、問答法を超えて学習効果がある。
・ファシリテーターは、その全員が考える環境をつくることが主な役割。
・コーチは、生徒の頭の化学反応を促進。
・ファシリテーターは生徒どうしが化学反応を起こすのを促進。
・ですから、話さない生徒もでてくるんだよねというのは、化学反応が起きていないだけで、どうやったら化学反応が起きるのか、創意工夫をするのがファシリテーター。そのときこそファシリテーターの腕の見せ所。
・PILはPBLと違い、あらかじめチーム分けをしないのが通常がゆえ、偶然隣にすわった生徒と行うことが多い。話せる雰囲気があるかどうかは、そのときにならないとわからないので、話さない生徒がでてくるのは当然。
・そこで、世の中にはジグソー法がある。毎回やる必要はない。クラス全体が話せる状況になったら、やる必要はないだろう。
・ともあれ、ファシリテーターは、その名の通り「道具」者。「道具」は「媒介」。「触媒」といってもよいかもしれない。
・ファシリテーターは、その「道具」のデザインをする。
・PC、PPT、ポストイット、模造紙、対話空間、ジグソー法、チームワーク、learninng by makingのための粘土やレゴなどなど。
・しかし、一番すぐれた道具は「問い」。
・この「問い」が、押し付けたものではなく、生徒が「自問自答」できないでいるときに、教師の問いではなく、生徒の問いを引き出す「問い」こそが、ファシリテーターの視点。これは難しくないが、生徒によりそっていなければわからない。
・そういう意味で、難しいのは、いっしょに数学や理科の問題を解くわけにいかないということ。だから、生徒全員に話す場合、勉強のやり方の問答になり、結局道徳的な説教になってしまう。
・教育行政の人や教育学者が、学びのファシリテーターができないのは、そこは教科の先生や塾の先生が教えることで、わたしたちは関係ないという話になっているから。
・そここそファシリテーターの端緒なのに。
・道徳はもちろん大事であるが、今この文章が理解できないとか、計算ができないというときに、その問題の解き方ではなく、学び方に気づく瞬間なのに、心構えの話をしても、生徒の頭は化学反応を起こすはずがない。
・化学反応は、引き合う要素どうしでないと、起こらないからだ。
・ファシリテーターは、生徒がいろいろな問題を解決しようとしているとき(計算から国際問題まで幅広いが)、解き方でもなく、普段の勉強の心構えでもなく、その問題に即した学び方に、生徒が「気づく=化学反応を起こす」「道具」を配置する役割。それが「問い」の配置の場合もあるということなのである。(問いがいかにすぐれていても、問いかけばかりだと、劇薬にもなる)
・そして、その「気づき」が、たとえば、計算問題の気づきが、純粋数学的な問題に気づくようになれば、つまり素粒子の気づきが宇宙の法則の気づきとリンクするような壮大な化学反応がおこれば、その生徒は学ぶことを体得する。
・計算問題をいくらトレーニングしても、素粒子の専門家だったとしても、この壮大なリンクへの夢に気づかなければ、学びを体得したとはいえない。この気づきのない勉強が、現状の受験勉強。学びを知らない人材を大量生産していることに気づいた文科省は、グローバル人材育成に細々と動き出したのである。
・それは友情の気づきが、組織や社会の気づきにリンクする場合にもいえる。

☆だから、どんなに優れたファシリテーターも講演スタイルのロールは、意味がない。真空の中で飛べと言っているようなものだからだ。目の前の生徒たちが学んでいるとき、そこに潜在する化学反応の構造を見出すことがファシリテーターだからである。

☆そうはいっても、ファシリテーターがそれを見出す視点の束がある。暗黙知ではあるが、それをできるだけ意識化する。するとそれが評価スタンダードになる。

☆ただし、このスタンダードは、ファシリテーターの暗黙知が故、汲めども汲めず、常に議論してブラッシュアップし続けることが肝要。古いスタンダードを使い続けることは、その都度の母集団の位置づけがわかる偏差値よりも効果がないものとなるだろう。

☆結局、PILとは何か?PBLとは何か?とは教師は伝達者からファシリテーターに変容するということである。だからといって、教師の科目専門職がなくなるわけではない。むしろその専門性がなければ、それぞれの分野や領域の現象や事象に直面している生徒の思考に火をつけることはできないだろう。

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