聖学院がPBLにおいて先進的なわけ(3)
☆生産、交換、消費、分配ということばを使っているからと言って、それらと同じかと言うと、エンゲストロームの理論は、フィンランドという北欧を代表する国々の経済基盤に拠っているから、それとは違う。
☆しかし、フィンランド経済が成立しているのは、多くの税金をつぎこんで、世界から略奪した資本で、国民に豊かに分配している国を作っているという点で、20世紀型略奪資本主義であることに変わりはない。国民は税金という投資をしているあるいは保険をかけているのである。
☆エッ!税金を投資とみなすなんておかしいじゃないと思うかもしれない。それは日本という国は、大企業が国家予算の略奪を合法的に行う官僚国家だから、気づかないだけだ。
☆そしてこの構造は、一般企業やNPO、公務員の収入感覚と同質である。給料の分捕り合戦。競争を求めて競争するか、公平性を求めて闘争するかの違いはある。しかし、税金という形で、略奪されていても、そこは気づかず、なぜかお金はお上からやってくるのである。
☆エッ!税金は法治国家の正当な権利関係ではないのかと思われるかもしれない。もちろんそうだ。しかし、少なくとも私の意志は反映しなくても反映しているとみなされるシステムである。
☆チーム高橋のPBL実践は、学びのシステムこそが経済システムであることを示唆している。生産するものは学びの体験値そのものである。その体験値が生徒自身による確定申告「ルーブリック」によって証明される。
☆体験値である限り、そこには分配という正義が稼働するが、それはもちろん、交換価値ではなく使用価値である。
☆この使用価値は、20世紀型資本主義が完全に排除した価値である。
☆少数の芸術家・クリエイターにのみ支払われてきた莫大な価値である。
☆しかしチーム高橋のPBL実践は、このクリエーターの価値を一人一人が獲得できることを目的にしている。ある意味21世紀型資本主義は奉仕経済である。奉仕という意味でのサービスである。これはもう純粋贈与の発想だろう。
☆キリスト教の本来的な資本主義は、この純粋贈与の発想。純粋贈与のクライテリアは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(『マタイによる福音書』7章12節)という黄金律。
☆功利主義者J.S.ミルも功利主義の正当性・信頼性・妥当性のモノサシは黄金律であると。
☆中世カトリック神学の都市経済における商品の価値を決める最終的モノサシも黄金律。もっとも現実はここから使用価値や配分の正義を排除して、交換の正義が全面に出てくるのであるが・・・。
☆ともあれ、その発想はアリストテレスであり、それを継承したのがルソー、ヘーゲル、マルクスであった。
☆しかし、資本主義も社会主義も、本来分配しなければならない純粋贈与の化石燃料の収奪戦争を産業革命以降、熾烈にしのぎあってきた。
☆さてさて、各語る私だって、この略奪資本主義のサイクルに組み込まれているのである。しかし、それを変容させたいと思うぐらいの自由の保障はされている民主国家日本である。
☆だから、そこに甘んじるのではなく、新しい資本主義のコミュニティへ歩むことはできる。今や略奪資本主義を歓迎する市民はそう多くはない。
☆そこをいかにしてリフォームできるのか、その知恵が働かない。だからチーム高橋のPBLなのである。
☆芥川龍之介が、すでに当時から、親友の法哲学者恒藤恭と毎日のように夜を徹して、新しい社会について議論した。しかし、恒藤のようにユートピア社会主義に希望を見つけることはできなかった。かといって、当時の優勝劣敗官僚資本主義にも与することはできなかった。
☆その文学は、夏目漱石同様、その矛盾の苦悩を表現することはできた。しかし、その向こうが見えなかったのかもしれない。
☆芥川龍之介縁の地北区に聖学院はある。その聖学院がチーム高橋を支援する。今も続く悲惨な世界の子どもたちの人生を生んでいる20世紀型近代の矛盾を乗り越える魂の継承。偶然とは思えない磁場がそこにはあるのかもしれない。
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