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21世紀型教育を求めて≪10≫ かえつ有明に金井先生が現れた意義。

☆かえつ有明は、この4月から高校の新クラスを開設。しばらく同校は完全中高一貫校だったが、今年から高校入試を再開した。その1つを金井先生が担任する。

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(入学式終了後のホームルームで、生徒と語り合う金井先生)

☆この意味は何だろう?もちろん戦略的には生徒募集を優位にしたいという学校当局の想いもあるだろう。しかし、それは現状の高校生の心の底から欲している根源的な存在への道を開けば、続々生徒は集まってくるから、結果的な話だ。

☆そう。この今の高校生の渇望している存在の根源的な何かをいっしょに探す教師こそ金井先生なのだろう。

われわれは、外見が見栄えのするものではなく、純粋で、安定し、隠れて見えない部分ほど美しさを増す善きものを追求しよう。それを掘り出そうではないか。それは決して遠くかけ離れたところにあるのではない。見つけられる。必要なのは、ただ、どこに手を差し伸べればよいのかを知ることだけである。だが、現実は、あたかも闇の中を行くがごとく、われわれは、手に入れたいと願う当のものに突き当たりながら、そうと知らず、そのそばを通り過ぎていくのである。

・・・・・・英知とは自然に反しないで、自然の理に従い、自然を範として自己を形成することなのである。したがって、幸福な生とはみずから自然の本姓に合致した生のことであり、その生を手に入れるには、精神が第一に、健全であり、その健全さを永続的に保持し続ける精神であること、次には勇敢で情熱的な精神であること。さらに見事なまでに忍耐強く、時々の状況に適応し、己の肉体と、肉体に関わることに気を配りながらも過度に神経質になることなく、また生を構築するその事物に関心を寄せながらも、そのどれも礼賛することなく、自然の賜物を、それに隷属するのではなく、用に供する心構えでいる精神であること以外に道はない。

☆これはセネカの言葉である。セネカは、見栄と欲望にまみれ、自然に反して活動し、その本性を忘却してしまった時の権力にそう語りかけた。当然、排除されることになる。

☆静かな情熱をもって対話する金井先生もセネカと同じような思想を持っているはずだが、だから以前の職場では居心地がわるかった。そんなとき、金井先生を真に必要とする空間がかえつ有明に開けたのだ。おのずと金井先生の存在のスペースが出来たのである。

☆セネカは、幸せが何であるか見極める道は暗中模索となるという。高校生もみなこの暗中模索の道をどこまでも歩み、幸せな生を探し求める。そんなときよき導者がそばにいてくれたらと多くの高校生は思う。しかし、多くの場合寄り道するな自分の偏差値に見合った大学に進めば幸せは訪れると。

☆もちろんそれでは全く反対に、根源的な存在から遠く離れていく。金井先生は、解答を教えはしないが、根源からずれていく道を選択させはしない。生徒たちも金井先生に盲従するのではなく、信頼することによって、善き道をどこまでも歩んでいこうとする。

☆そのはるかなものを求めてどこまでも歩いてゆくすがたこそ幸せであり、その状態を「嘉悦」と先人は呼んだ。

☆「嘉悦」に到る道を金井先生は新高1とともに歩んでいく。それが「かえつ有明」の根源的教育の精神なのであろう。

☆根源的なものがあふれる「嘉悦」に、善き教師も善き生徒も集まってきているのがかえつ有明である。

☆新校長石川先生が立ち上げ当時から構築してきたのは、そういう学校だったのである。

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