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成蹊 本物の度合いが違いすぎる(1)21世紀型教育の目で見なければ見えない教育の質

☆成蹊という学校は、あらゆる点で本物の本物です。成蹊の空間を歩いてみるとピンときます。私は歩きながら、御三家のおわりの風がここから吹いているのを感じました。行き交う生徒と話して、大学受験指導ではなく大学入学準備教育をしっかり受けていると共鳴しました。

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(成蹊中高の正門につながる並木道)

☆21会(21世紀型教育を創る会)の事務局でもある私の目は、いつの間にか同志校のイノベーション教育とは何かのメガネができてしまっています。そのメガネを通してみると、御三家が社会的貢献を果たすコミットメントがなされていないようにみえてならないのですが、成蹊は21会校が必死になってシミュレーションして創ってきた21世紀型教育の自然体がすでに有機体として存在しているのに驚かされたのです。

☆おそらく21会メガネをかけていなかったころの私が成蹊を同じように歩いても、感知できなかったかもしれない教育の質がそこにはあるのです。

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☆成蹊の空間は、武蔵野の自然とモダニズムデザインの校舎で知の森をつくりあげています。コンセプトはしかしながら遠近法の果てにあるダビンチ・コードです。果てに出現する論理の不確実性です。

☆論理というルーチンはその原初においてはすべて混沌としていて、そこから再び論理を組みなおす創造性がなければ、命の空洞化した論理を入試でうまくいくための、あるいは利益社会で効率よく見かけの合理性で成功するためのスキルを手に入れるだけのことでしょう。

☆しかし、それが20世紀社会を矛盾やアンヴィバレンツな葛藤の渦に投げ込んだ理由であることは、最近、世の人々もうすうす感じるようになりました。そのような人々が21世紀型教育を求めているのですが、21世紀型教育校の新しい教育はまだまだ人工的だしプログラムとして強引につくられていることも否定できません。

☆空洞化された論理をたどっていくと、そこに混沌という驚きの命の泉があり、そこから命を回復した論理の道を組み立て直す。そういう教育は御三家にはない。他の21世紀型教育校でもシュミレーション中の教育としてしかもっていないのですが、すでに成蹊にはあるのです。

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☆並木道から正門に入ると、生徒たちが写生をしていました。成蹊の自然を自分の五感で再現しています。オックスブリッジの入学試験で、こんな口頭試問の問いが投げかけられます。木を描いたとして、君が見ている木と君が描いた木とではどちらが本物なのか?

☆この問いは、気軽に論理を組みたてていくと、カントの物それ自体にぶつかります。不可知の何かにぶつかるのです。その混沌から、カントよろしくコペルニクス転回をやってのけなければなりません。そんなことを思って、理科館を訪れたら、なんと写生をしている生徒と同じ姿勢に直面しました。

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☆君が見ている火星の軌道とコンピュータがシュミレーションしている軌道とはどちらが本物なのか?

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☆科学とは何か?反証可能性とは何か?本物は高次の知性がつくりあがた像に過ぎないのか。まさにコペルニクス的転回の授業が展開されていたのです。

☆毎日、成蹊の生徒は、キャンパスを歩き、キャンパスの果てを探求し、校舎を歩き、校舎の果てを探します。その果てでこそ学習活動が行われているのです。あらゆるものの緒元に立ち返り、そこから考え直す本物教育。

☆こんな武蔵野の自然と建築空間と授業における脳内高次知性(メタ認知)がネットワークをつなぎ循環している学校は、御三家にはありません。でも欧米の名門校にはあります。

☆21世紀型教育は、その自然と社会と精神の循環教育をシミュレーション的にプログラム化します。しかし、そのような条件が揃っていないので、自然体としては確立できないのです。

☆成蹊は、シミュレーション段階を超えています。本物の本物があるわけです。本物の度合いがあまりに違いすぎる教育が持続可能になっているのです。成蹊の凄さを見抜ける21世紀型教育の眼差しを受験生/保護者も養わなければ、いつまでも本物が見えないままです。

☆そして、気づいた時には、未来に飲み込まれているでしょう。未来にのみ込まれるのではなく、成蹊のように、未来を緒元から創りだせる教育を探したいものです。

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