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「斉藤桂太」麻布のもう一つの知

☆昨日27日(金)、吉祥寺シアターで、「非劇」が上演されました。「悲劇」ではなく「非劇」です。斉藤桂太さん作、岸井大輔さん補綴、篠田千明さん演出。全く新しいアートとドラマのトリックフラクタルな劇でした。

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☆「斉藤桂太」との遭遇は、10年程前。Hondaのレース場があるツインリンクもてぎで、中高生のための知のワークショップ(2泊3日)をやっていたころ、チューターのスタッフとして参加してくれていました。

☆何せチューターは教えない。存在そのものがいい感じである気遣いをという難しいロールプレイだったので、今でこそファシリテーターという概念が広まっていますが、その当時はクライアントである学校の先生方や同僚からもなかなか理念を共有することができませんでした。

☆チューターチームもとまどったことでしょう。ロジカルより感性を優先させるような話だったので、たしかにやりにくかったと思います。J.J.ルソーの野性重視ですね。ラングよりパロールというルソーの言語起原論的な試み。でもそのパロールもセイブする。。。

☆しかし、十分にレッスンもできないまま、私が前泊で宿舎にはいって、いっしょにワークショップやるということも多かったですね。とにかく、私が教えなくても、いつのまにかチームが語り動きということになっていることを細かくリフレクションをいれながら、体感してもらうということしかできませんでしたが、今ではワークショップという概念も広まっていますから、わりとこの「体感」というのはいい感じだったと思います。

☆「斉藤桂太」は麻布出身だったということもあり、感性がシンクロしたのかもしれません。この通常の講義形式でないワークショップ型の学びのスタイルに積極的に参加してくれました。

☆当時の私は、フランク・ロイト・ライトやバウハウス、イサム・ノグチの空間デザインに憑りつかれていましたから、子どもたちとチューターの対話空間の設計を気にしていました。

☆チームに1人チューターがいて、いっしょに活動するとそこに対話空間が生まれます。子どもたちはチューターをあてにして、当時の一般的な対話空間をつくりたがります。それゆえ、チュータは沈黙です。

☆そんな感じで、里山にはります。沈黙のチューターも、子どもが危険なめにあいそうになると、さっと口を開きます。抱きかかえもします。子どもたちはチューターはコミュニケーションンがちゃんととれるんんだと思ったことでしょうね。

☆紙のシナリオは、楽譜同然で、子どもやチュータが演奏者です。ただ、コンダクターはいませんし、即興演奏のカデンツアもたくさんありました。イサム・ノグチの彫刻は未完。子どもがそこでたわむれた瞬間に完成態が出現するという考え方に共鳴していましたから、プログラム全体が終えたときに子どもたちもチューターも全貌が見えるという形でした。

☆チューターに若きアーティスト(声楽家)がいて、そのときどきの感性を歌にして表現します。彼女が参加してくれたワークショップで、終了時に思わずハグして学校の先生方に驚かれたのを憶えています。グローバル教育の今では当たり前なのかもしれません。

☆ともあれ、そんなときに麻布の中にある近代の光を増幅する知と近代の闇と戦う知のうち近代の闇と戦う創造知の持ち主だった「斉藤桂太」には、少しおもしろかったのかもしれません。同じことは開成の知についてもいえますね。岸井さんは開成出身で、両方の知を大いに楽しむトリックスター的な側面があって魅力的です。

☆しかし、コスパを考える企業との連携だったので、当然計算合理性、予見可能性のあらかじめ成立しない事業は、最初はインパクトを優先するから立ちあがるのですが、その持続可能性の段階で合理化されます。

☆そんなわけで、その仕事を私が脱退したこともあって、「斉藤桂太」とはしばらく会っていなかったのです。けれど、昨年12月に、facebookでターゲット発見とばかり、「斉藤桂太」はひょっこり現れたのです。

☆私自身、麻布の前校長の氷上先生とは何度か語り合う機会があったのですが、「斉藤桂太」も卒業後氷上前校長を訪ねていたようです。氷上先生から斉藤桂太たちはよく訪れるよ。本間さんとなんかやっているということも聞いたけれど、彼らの勉強は実は今始まった。学校の勉強とはスケールが違う世界や歴史との格闘かなあ」と語っていたのを憶えています。

☆氷上先生からは、学校経営上近代の光を増幅する知も大切にするし、≪私学の系譜≫として近代の闇と戦う知も大切にする。二兎追わざるを得ないという考え方を聴いて、私立学校研究家としては当時共鳴していました。

☆氷上先生の弟子である宮台真司さんは、社会学者としてその近代の光を増幅する知の部分を氷上先生とは議論伯仲という感じでしたね。もっとも、どんなに偉い学者も、中高時代の恩師の前では、批判というより、議論を大いに楽しむという感じですが。氷上先生も啓蒙哲学者ですから、根本のところでは、宮台さんと通底しています。

☆それにお2人の祖父は、戦後日本の成立過程で同じ思想の持ち主ですから、たんに中高の恩師と生徒という関係でもないようですね。

☆ともあれ、「斉藤桂太」は、近大の光増幅知には「寛容」で、むしろ近代の闇と戦うもう一つの麻布の知に親和性を感じていたのでしょう。

☆それが直接今回の「非劇」に結実したのかどうかはわかりません。しかし、いかにもそんな感じでした。

☆2045年シンギュラリティ時代のクアラルンプールの空港という空間設定で劇は進展します。29日まで上演されるので、ストーリーについては触れませんが、パラドクスと一見トートロジーだけれど、微妙にずれていくフラクタルな展開が、次元をゆっくり上げていきます。

☆空間には、テロや戦争を五感でとらえられるように、光や匂いの仕掛けもされています。かすかになのですが、五感を刺激して観客が自らイメージの像を結ぶ仕掛けが巧みでした。

☆目の前に見えている演戯やダンスや歌やけたたましい音は、そのまま受け入れたら劇として成立しないのです。あくまで観客が五感を通して像を結ぶ、そのイメージが劇を成立させています。

☆空間デザインは、バウハウスっぽいし、映像は蘇るロシアアバンギャルドって感じ。言語は自己言及のパラドクスががんがん仕掛けられ、エッシャーとゲーデルの論理階梯が随所でショートしまくりです。

☆そのたびに体操のアスリートのように舞台をところせましと飛び跳ねながら回転しながら、叫び語り、身体でデジタルワールドを表現していきます。しかし、全体としては「穏やかな騒音」というこれまたパラドクスワールド。

☆貧困、テロ、孤独、ディスコミュニケーション、AI、ビッグデータ・・・さまざまなグローバルイシューが展開するけれど、ふだん私たちが解決したいと思うよなアイデアでは展開しないんですね。

☆バックトゥーザフューチャーのさらに30年後である2045年を設定してますが、そこは科学はますます進むけれど、グローバルイシューは2015年と同じ。でもそれでも決定的な解決をしている。それがまさに「非劇」。

☆この劇は、目で見ているストーリーの歴史未来的なSF仕立てでできていますが、私には、夏目漱石の「こころ2015」だと思えてならないのです。

☆「こころ」だって、「先生」の友人Kと三角関係をめぐる葛藤ストーリーですが、実際には、すべて「先生」の深層心理の話だとイメージすることもできます。

☆劇が終わった後、「2045年空港」は別の空間になっていました。閉幕の仕方は、あのマトリクス同様です。デ出口では「ステッカー」を渡されました。子どもの頃、シールをもらうとなぜかワクワクしました。これがオチ・・・というわけではないでしょうが、「悲」から「心」が喪失し、「非」は転倒してしていますね。

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☆この劇は劇ではなく「心」という意識が隠されたテーマだったのかもしれません。「愛と死」のワーグナーの懐かしい心。もちろん、私の妄想です。

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