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溝上慎一氏 主体的学習を単純化しすぎ?

☆アクティブラーニングと言えば、溝上慎一氏。多くの著書を出しているが、書いてあることは一貫して同じだから、次のパワーポイントを見ると、その考えはわかりやすい。溝上氏の考えは、ある意味公立学校の現場の状況を配慮しているので、日本の教育の現状が映し出されているともとらえることができるので、貴重なリソースである。

☆実に驚くのは、やはりこれでは子どもはつらいなあということである。こんなに単純化して(物象化してとでも言えばよいのかもしれないが)は、一億総鬱病にならざるを得ないような、不幸せな教育システムになってしまうなあ。いやなっているのか。。。少し不安になる。

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☆まず、主体的という概念を、次のような図Ⅰで単純化している。

図Ⅰ

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☆これは、単なる図ですといわれるかもしれない。確かにそうかもしれない。しかし、これは次の図の「即自」の出発点を意味するのである。

図Ⅱ

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☆「即時」は「即自」の単純ミスだと思うが、もしかして、「即時」というのは、瞬間という時間内に見え隠れする内面化する存在とか時代の諸関係の中に埋もれている存在というのだったら、たしかにディープである。

☆しかし、おそらく「即自」ではないか。つまり、一個の行為主体者。それが、ディープラーニングを行っていく中で、開かれて「対自的」な存在になる。

☆もし、そんな流れだとしたら、恐ろしい。仮に「即自」→「対他」→「対自」だとしても、その対他」の「他」も「即自」から出発しているかろうだからだ。

☆このPPTの中で、「主体」を「主観」と置き換えるページがあるように、結局、ディープラーニングによって、偏狭な「即自的主体」=「主観的ものの見方」から、いろいろ客観的なものをディープに学んで、主観を脱した自分に成長するということなのだろうが、それって辛くないですか。

☆なぜなら結局「主観」という「主体」を捨てることが成長だということになるからです。興味関心あることから出発しようというのは主観的なことですよね。にもかかわらず、それをすててモチベーションをあげようというのは、辛いなあ。

☆しかし、「即時」だとしたら、これはすごいことになる。ただし、このとき、図Ⅰは、関係なくなる。というのも、「即時」は時代的な諸関係を、いまここで自分だけのかけがえのない瞬間に、無意識のうちにではあるが内面化している協働的無自覚主体だから。

☆その協働的無自覚な「即自」が、「協働的関係総体」をディープに調べ、議論し、考え抜くからこそ、意識された「即かつ対自的な自己実現物語」が開かれてくる。

☆しかし、それが物語である以上、意識されたと思うや再びその背景に無意識があることに気づき、そこを再び調べ、議論し、考え抜く探究活動が始まる。終わりであって始めであるというネバーエンディングストーリーが現れ出でてくる。

☆これを無限後退とネガティブにとらえるか、無限未来とポジティブにとらえるか、悟りの境地としてとらえるか、さてそこはどうする?

☆これは、協働的関係総体を優勝劣敗20世紀型資本主義社会で思い描くか、21世紀型新しい資本主義社会で描くか、すべての社会形態の煩悩からの解脱ととらえるか差異があるということだろう。

☆もちろん、新しい資本主義はまだこれからなのだが、2012年ころから盛んに議論され始めていることも確か。21世紀型教育とは、子どもたちの未来の教育を、新しい資本主義で考えるということにつながらなければ意味がない。

☆子どもたちと新しい資本主義をつくっていくのが望ましい。おそらく18歳選挙権とか起業家精神育成などという動きは、まだまだ表層的かもしれないが、その兆しだろう。

☆ディープアクティブラーニングが、もし20世紀型教育とは違うパラダイムシフトを牽引する一つの授業だとするなら、ちゃんと社会のパラダイムシフトも考案しなければ意味がない。

☆図Ⅰのような抽象的な主体的自己概念から出発するような20世紀型パラダイムでは、何も変わらず子どもはただ辛いだけだと思う。

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