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学びの根っこ=思考コードが広がり始めている^^)♪

☆手法としてのアクティブラーニングと21世紀型教育のアクティブラーニングの決定的違いは、「思考コード(知のコード)」があるかどうか。

☆コードがないとアマゾンも模擬試験会社も、商品流通会社も、株式市場も、AIも動かない。コミュニケーションはシステム思考とデザイン思考で対話が進むが、コードが意識されていないから、一つのことにこだわってああでもないこうでもないと議論ではなく言い合いになって終わるのがおちである。コードとはルールの体系であり、私たちの生活も法というコード体系で守られ、運用されている。

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(ここで教育のみならず世界のパラダイムを転換させる知が生まれている。)

☆国際バカロレアもブルームのタキソノミーという分類コードに依拠して運営され、学びが展開され、評価されている。TOEFLやIELTSもスコアを出すことができるのは、コード体系が背景にあるからだ。

☆あらゆる領域で出来るヤツというのは、その領域のルールを知っていて、活用出来ていて、クリティカルシンキングで現実とコードを比較対照して調整したり軌道修正したり、あるときはルールそのものを創造したりできる人のことをいう。

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(ここもパラダイム転換の発信地になるだろう)

☆とくにその中で、コードの調整や創造ができる人はGrowth Mindsetのリーダーシップを大いに発揮できる。

☆それができないリーダーが上司にいると、ルールはルールだと抑圧的な環境を生み出すので、当然メンバーのやる気は失われ、心は凍てつき、生産性は低くなる。

☆システム思考とは、このルールの知識から改変までの対話システムの運用のことであり、デザイン思考とはシステム思考を足場に、コードを創造できるルールメイクの話である。

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(ここもパラダイム転換の一角となるだろう)

☆アクティブラーニングは手法ではなく、このシステム思考とデザイン思考の形成のシミュレーションの場であり、極めてプラグマティックなお話しなのである。

☆だから、これからの教師はコードを知り、活用し、修正し、創造できるSGT(スーパーグローバルティーチャー)でなければ子どもたちといっしょに未来を開けない。

☆学びのスタイルだとか、学びのパターンだとか、思考力・判断力・表現力だとか、ICTだとかいうものは、コードという俯瞰システムの格子点ではある。しかし、点で行われているアクティブラーニングは手法でしかない。しかし、思考コードベースのアクティブラーニングは生徒1人ひとりの才能をいかすリーダーシップを生み出す人間存在の拠点になるだろう。

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(この小学校もパラダイム転換の灯を放っている)

☆英語を道具だ手法と言っているうちは、人間存在は隠れてしまう。アクティブラーニングが手法だと言っているうちは、生徒の存在は無視される。

☆それは、法は手段だと言っているうちは、格差問題がなくならないのと同じくらい重大な問題。

☆しかしながら、最近このことに気づきはじめた先生方や関係者がでてきた。鹿児島のある先生が北海道でレクチャーワークショップを行い、ブルームのタキソノミーを参加した先生方と共有できたと聞き及ぶ。昨日の首都圏模試センターの「最難関模試」の保護者会を通して、おおたとしまささんやたまたま保護者会に参加していた慶応大学の学生と基準となるコードの必要性についての実感を語り合うことができた。

☆また思考コードの発信地である工学院の学内では、その活用と修正、創造のループが広がっている。

☆もちろん、これらの動きの音源を徐々にあげているのは、首都圏模試センターである。

☆パラダイム転換といったとき、生活の基盤であるルール体系、つまりコード体系がシフトするということを示唆している。もちろん、ものごとをコードで共約することはできないのではないかという個と普遍の論争は、遠く中世から普遍論争として解決されないまま今に来ている。

☆ある意味、八百万の神々が文化的背景にある日本では、コードという発想は難しいのかもしれない。一神教や自然法論の根拠となる啓蒙思想をベースにしている欧米ではわりと受け入れやすい。もちろん、欧米でもアンチ普遍の立場もある。

☆しかし、コードというのはある意味強烈で、普遍とアンチ普遍のアンビバレンツを飲み込むものなのである。

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(ここにもパラダイム転換の兆しがある)

☆その象徴がプロテスタンティズムである。カトリシズムは普遍でだいたいいけるのであるが、プロテスタンティズムは実は自然法みたいな普遍には距離をあける。しかし、キリストは大いに受け入れる。マックス・ウェーバーの凄いところは、近大の矛盾の発露をこのプロテスタンティズムの倫理に見いだしたことではないだろうか。

☆ウェーバーがカントに従ってカテゴライズやタイプ論を論じているが、あれもまたコードである。そもそもカントのカテゴリーは知のコードそのものである。

☆フィンランドの教育省のメンバーは、カントやヘーゲルを論じながら教育政策を考案する。それは哲学の思想的側面を埋め込むためではなく、コード創造のためのヒントにしているに過ぎない。

☆OECD/PISAのコンピテンシーもざっくりコードであるが、リーサーチペーパーをみると、リテラシーのアセスメントの尺度としてブルームのタキソノミーを参照してコーディングしている。

☆日本でもIBやPISAを押し進めようとしている動きがあるが、その動きは結局は強欲資本主義としての経済的側面だけが強調され、学びのコードの部分はまったく触れられていない。触れられていてもたまたまレポートに書いてあったから、コードという意識なくただ紹介しているだけだ。

☆思考コードは強欲資本主義から創造的資本主義にパラダイムをシフトするルール変更を導くから嫌煙されているのかもしれない。コードを嫌いな人は、それはリバタリアンか浅薄な自由論者だ。

☆コードを知らなければ、時間泥棒に勝てない。つまり、強欲資本主義ははびこる。灰色の男たちとモモのどちらを選択するのか。強欲資本主義か創造的才能者資本主義か。徹底的にICTによる透明化がおきたとき、ようやくアダム・スミスの世界が実現するだろうが、はてさて現実はそう簡単ではない。

☆そんなとき、ウェーバーはこう語る。「にもかかわらず」なのだと。

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