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なぜ「対話思考」ができる教師がいる学校が注目されるか。

☆今「アクティブラーニング」だとか、「主体的・対話的で深い学び」という新しい授業が注目を浴びつつも、その批判や非難も多い。批判する人はそれはなんちゃってアクティブラーニングだとか、「深い学び」ではないとかいうことらしい。

☆非難する人は、そんなんでは大学合格実績はでないとかいうことが主要な理由らしい。

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☆しかしながら、その批判も非難も、まだきちんと根拠づけがなされていない。大学合格実績があるじゃないかというけれど、それは成果主義であって、アクティブラーニングや「主体的・対話的で深い学び」のシステムを理解したうえで、非難しているわけではない。だから非難なのだが、わからんゆえにダメだという考え方は、民主主義的態度ではないので、これに付き合う必要はないだろう。

☆むしろ、なんちゃってアクティブラーニングだと、批判する側の根拠は何かということを考えたほうが有益だろう。批判する側はなんらかのシステムイメージをベースに批判しているからだ。

☆彼らの批判理由は、双方向の対話は形だけで、本物ではない。そして、そのような対話では思考過程は深まらないから、形だけのなんちゃってで終わっていると。

☆では、双方向とは何か?深まるとはどういうことなのか?実はこの対話システムがどうなっているかまで考えて語っているのではなく、イメージや勘で語っている場合が多い。

☆それは、しかし、当然なのだ。今まで日本の教育において対話を成立させる共通基準が語られたことはなかったからである。

☆対話に共通基準?これがないと対話は成り立たない。よく貨幣という記号がメタファーとして使われるが、経済循環が貨幣によって回るのは、貨幣が経済という交換、つまり市場対話の共通基準になっているからであり、だからこそ為替相場も成り立つ。

☆相対性理論が光速という絶対基準があるから成り立つのと同じ。

☆最近、デザイン思考などで、制約がクリエイティビティを生み出すなどと言われているが、これは制約ではなく、制度設計基準ということ。その基準がゆがんでいると、規制になり、適性だと自由を生み出したりするだけなのである。

☆さて、対話にももどると、20世紀型の授業における教師と生徒の対話は、抑圧的である。上記図で言えば、Aの図。それが問題なのだ。この授業が大学合格実績を出すか出さないかはまったく本質的問題ではない。

☆だいたい、このような非難をしている人の気がしれないのは、じゃあ20世紀型授業をやっているすべての学校から東大合格者が100人以上でるのかということである。でるはずもない。大学合格実績は、20世紀型授業か21世紀型授業かの違いででるのではないのは、もはや明らかだろう。

☆さて、抑圧とはどういうことか。物理的暴力というのが端的だが、これは法律論的にアウトだから、戦後の20世紀型授業でもさすがにそれはやらない。ときどきやって訴訟問題になるが。それは本筋でないので、置いておくとして、実は、目に見えない心理的抑圧は行ってきた。意識してではなく、無意識のうちにだと思う。

☆それは、学びの基準、対話の基準を教師が暗黙知として情報を公開してこなかったたために、生徒はその基準を探して教師の顔色を見て、ただただ教師の考えに従ってきたということなのだ。生徒は、従属を被るという抑圧をうけてきた。

☆それに対して、それはいかん。何より大事なのは共感することなのだ。基準なんていらないと、同調圧力をかける対話もある。上記図で言えばB。それを対話とは言わないが、形式的に。生徒は、同調圧力を被ってきた。

☆21世紀型授業では、そのような縦の関係から横の関係にシフトする。その際、教えない授業というメタファーがつかわれるようになる。図ではC。大事なのは共感なのだと。同調ではなく、共感共鳴共振が起こっている状態がそれだ。

☆しかし、これでは、思考が始まらない。中にはC´の図のように、このフラットな共感の状態がゆえに、自由な雰囲気が生まれ、生徒の側から基準が形成されることもある。まさしく「教えない授業」である。しかし、対話の基準である「思考コード」や「メタルーブリック」は教師の側も明らかにしておこなければ、フィードバックができない。

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☆フィードバック?そんなものは不要だという方もいる。ところが、この対話の基準である「思考コード」は、法律のように国会で制定されるものではない。そのコミュニティが対話の中で、精査していく未規定な基準なのである。

☆だから、基準を明快にしないで教えないというのは、対話をしないといっているに等しい。21世紀型授業は対話思考がベース。対話をしなければ、形だけのなんちゃってアクティブラーニングの対話だということになる。

☆それから、双方向で対話しているようでも、教師の側が、基準である思考コードを暗黙知のままにして情報公開をしないとしたら、図Aの縦の関係が、図Dのように横にしただけで、情報公開がないという点では同じだ。情報公開がないとき、やはりそこに心理的抑圧が生まれる。そもそも縦とか横とかフラットとかはメタファー表現に過ぎない。本質は基準である思考コードを情報公開して共有できるかだ。

☆したがって、21世紀型授業の最低限の条件は、図Eのように、双方向な対話(頭痛が痛いというの同じ感覚だが・・・)において、教師も生徒も共感し、それぞれの基準である「思考コード」についてリフレクション出来る状況を作ることである。この環境をつくる行為をファシリテーションという。

☆リフレクションによって、教師も生徒も基準を修正しながらプロトタイプを形成していく。

☆しかしながら、この作業は、その学校が、あるいはコミュニティが、学習する組織になっていないと、混乱混迷というカオスを生み出してしまう。それへの恐怖が非難の本当の理由なのだ。

☆生徒にとっての進化途上の基準は、1つであるのに対し、生徒が参加する教師の基準はすべてばらばら。生徒側が調整するのに膨大な時間がかかる。

☆それが学習する組織だと、まさにこの基準をシステム思考によって採択する。それぞれの教師の基準を尊重しつつも、コミュニティーとしてはどれを採択するのか話し合える。その基準は私とは違うが、この条件下においては、こちらを活用する方が最適だと判断するというビジョン共有がなされるからだ。

☆さて、そうなってくると、教師と生徒は、その基準である思考コードやメタルーブリックを見える化する必要がある。見える化して、互いに軌道修正をしていくというのが、学習する組織の真骨頂だ。

Photo_5☆図Fがこの段階を示しているが、この段階をようやく対話思考と呼ぶ。そして、この見える化された思考コードは、クラウド上に生徒1人ひとりの思考の成長の軌跡をポートフォリオ化できる。このような対話思考ができる教師がいる学校が注目されるのは言うまでもない。

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