子供の置かれている条件のシフト
☆今まで、子供は、幻想だと思えるほど、学校という場とその延長上の家庭学習や塾において、教科の学びを足場にすることが当たり前になってきた。学校や家庭や塾、自然環境など、物理的場所は違うが、いずれも教科という知識が土台になってきたと考えることができる。
☆そして、高校卒業時期に、いきなり大学という学問の府や社会に飛べと、押し出されてきた。しかし、教科という知識の翼を準備できない子供もいる。あくまで知識の翼を身に着け、飛べと。
☆このイメージは、結構恐ろしい。何かもっとケアを必要とするような気がする。もちろん、このようなイメージを持つからだが、不安や恐怖は、ケアがないときに感じるものだ。だから、受験や就職試験に挑戦するときに勇気や自信を抱けるように、多くの人が励ますわけだが、ケアの仕方はそれしかないのだろうか。
☆翼を最終的には自分で強くするしかないという考えしかないのだろうか。別の翼ではだめなのだろうか。別の乗り物で接続するではダメなのだろうか。
☆そう考えていったとき。そもそも子供はなぜ教科のみを土台にしているのか?ふと周りを見渡せば、もう少し違う環境の中にいたのではないか。そこから逆に教科を眺めてみることはできないか。
☆つまり、土台は、当たり前の話であるが、人間としての生活ではないか。その土台の一つとして教科はある。じゃあほかになにがあるのか?最近アートやSTEM教育といわれているが、これは、もともと生活そのものではないか。
☆このアートやSTEMと関連し合っているのが、子供の発達段階に応じて、教科だったり学問だったり、つまり専門領域だったりする。
☆だから、知識や専門領域は、子供のすべてにおいて生活基盤をカバーしているかというと、明らかにそうではない。新しい教科や新しい学部学科が新設されることがあるということは、それは生活の中に新しい可能性を見出して、それをニーズといってもよいのだが、その結果見出されたということを示唆している。
☆とするならば、これからも見出される可能性はある。生活こそポテンシャルの育成の場だ。そこを見出すことの重要性。そしてそれを見出したら、それを受け入れられる社会の制度設計をしなければならない。
☆潜在的可能性は、既存の教科や既存の学問、既存の企業などの器には収まり切れない。それゆえ、新中学入試や大学入試改革であり、潜在的可能性を見出す場として新しい授業や学校外の新しい学びの場が増えてきているのではないか。
☆子供は、すでに教科以外に、実は学問とつながっているし、アートやSTEMとつながっている。それなのに、つながっていないかのような制度がこれまでの受験制度だったわけだ。子供の潜在的可能性の生活の足場をわざわざ外して競争させる。
☆子供の生活基盤から出発できる条件を回復しよう。その動きが中学入試で先行してでてきているのではないか。子供の置かれている条件を、点から点に飛ぶイメージから、生涯教育と社会の諸関係の中心にシフトしてみよう。
☆そして、その関係項を別の言葉で次々置き換えてみた。すると、リベラルアーツの現代化の位置づけが明瞭になってきたり、子供中心主義という発想は、実は学校においてではなく、社会の中で行われなければならないということも改めて見えてきた。
☆生涯教育という関係でいえば、各教科で語られている教科理論は、実際には先生によって違う。教師のマイセオリーが中心だ。学問の世界は、最前線の成果として、仮説検証されてときに揺らぐが、客観的なアカデミックセオリーが探求されている。
☆子供はマイセオリーに支配されるのは困るし、かといってアカデミックセオリーにいきなり到達できない。それゆえ、生活という無限の諸関係の中から協働知としてのアワセオリーが存在している。
☆だから、多様性が欠かせないし、協働性が欠かせない。そしてまだ見ぬ潜在的可能性を見出す、アンチ同調性も。
☆こう考えていくと、教科中心主義の学校から子供中心主義の学校にシフトするのは時代の変化としてと必然だったのだ。その交差点で学校以外の多様な組織と出会うのも当然だったのだ。習い事やスポーツ、プログラミングなど教科を超える学びの組織との出会い。グローバルな活動との出会いも。
☆そうなってくると、私たち大人の役割も広がる。実は子供と大人は発達する人間として置き換えれば、同じ関係性に位置しているからだ。昨年開催されたスペイン版アカデミー賞、第31回ゴヤ賞(31st Goya Awards)で「最優秀短編アニメ映画賞」を受賞し、世界各国で60を越える賞を受賞、オンラインでも配信され、世界中から涙と感動の渦を巻き起こしている7分間短編アニメーション映画『Alike』に、それが見事に表現されている。
☆このポジショニングから諸関係を見てみると、世界は、再びコペルニクス的転回が起こる。意識しているかどうかわからないが、幅広い役割を演じている若い先生方が増えてきていることも事実だ。教師の働き方改革が必要なのは、子供を経めぐる生活基盤に中心をずらすということ。地球を中心としていたのを太陽を中心としたように。もっとも、その中心はメタ中心というのがほかにあるかもしれないから、クリティカルシンキングは大切だ。
☆山下氏と北氏とのミーティングはいつも果てしない物語を描くことになる。もちろん、具体的なアクションについても話題は広がったが、出発点の確認をめぐって常に対話ができる仲間がいることは、なによりのメンタルケアの場である。
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