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齊藤亜矢氏の「芸術認知科学」という領域はおもしろい。

☆京都造形芸術大学の准教授齊藤亜矢氏の著書「ヒトはなぜ絵を描くのか~芸術認知科学への招待」(岩波書店2014年)に先ほど出遭った。我が家は、売れないアーティストたちと芸術オンチの私で構成されている。そして、私の弟一家は造園家だし、母も義理の母も造形作家。売れているかどうかはともかく。叔父は他界したが、イタリアのモナコの弟子で、彼も売れなかったオペラ歌手だ。

Saito

☆おっ、そうだ。義理の息子は、結構売れっ子アーティストだ。彼は、バイオテクノロジーに興味がありつつ、その世界を絵や彫刻で表現している。決して抽象的ではないのだが、あまりにナノレベルの世界だから、抽象的に見える。ともあえ、森や生物研究室にはいって観察しながらイマジネーションを膨らましている。

☆バンドン工科大学で、アートを学んでいる。どうも、世界では、そういうメジャーマイナー制のような研究が当たり前のような感じだ。

☆たしかにMITメディアラボとアートの棟は、向かい合っている。それに東工大も最近美大とコラボしてリベラルアーツの領域を広げてもいる。

☆つまり、世はアートとサイエンスやテクノロジーが融合する時代なのだろう。なるほどSTEAMなわけだ。そう芸術認知学という領域があるぐらいだし。そんなわけで、洞窟壁画を調べている我が家のアーティストの机の上に、齊藤氏の著書が積んであったのだ。

☆本書は、洞窟壁画のフィールドワークから、人類誕生時から埋め込まれている絵を描く認知的な枠組みに想いを馳せるところから始まる。小冊子でありながら、壮大な時代超越的な科学の物語。

☆チンパンジーと数%しか違わない遺伝子を持っている人間との比較もなかなかおもしろい。

☆しかし、芸術オンチの私には、芸術が見方を変えるとか、枠組みを壊すとかという機能もおもしろかったが、その根源にある認知の枠組みの仮説が妙に気になった。

☆アートとサイエンスを結合するのは、どこか通約可能性が必要だというのは、あまりに常識的な認識かもしれない。アートはそれをも拒否する自由を持っているというのだ。

☆しかし、結合したり、コラボしたりできるのは、やはりなんらかの枠組みとか基準とかが必要だろう。もちろん、それは固定的でなく、その都度組みかえられるのかもしれない。

☆しかしながら、組み換えらるにしても、それは存在しているのではないか。

☆この認知の枠組みとは、今中高の先生方や首都圏模試センターのメンバーと授業やテストの中で実験している「思考コード」に相当するのではないか。

☆人間は人類誕生以来の系統発生を、何十万年という歳月をかけて、維持している。その認知の枠組みが、決してバランスよく形成できなかったときもあったし、いや、むしろ、認知の枠組みが成長し続けているとも考えることができる。

☆そして、その成長を妨げる政治経済・人間関係が絶えずあった。今もある。学校現場であれば、一握りの優秀生とそうでない生徒という抑圧的分断線が多くの生徒の未来を拓く認知の枠組み=思考コードを未成熟のまま放置されてきた可能性がある。

☆というよりも、その存在を受け入れない現場もまだ存在している。

☆そのことに気づく契機が芸術であり、同時にできたと思たっら、否定するのも、これまた芸術なのかもしれない。齊藤氏の本との出遭いによって、そんなことを想う瞬間に誘われた。

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