学校選択の目【27】「麻布・武蔵」と「開成・駒東」と「工学院・聖学院」との違い ミネルバ大学を軸に
☆おおたとしまさ氏の著作≪名門「武蔵」で考える東大合格より大事なこと≫には、実に重大な武蔵の生徒の思考力に対する考え方が記述されている。それはおおたさんと生徒が対話している箇所にある。引用しよう。
「いま世界で分断が進んでいる気がします。グローバル化が進んでわかり合おうとした結果、反発しちゃってるっていう流れだと思うんですけど、最終的にはお互いの価値観を認め合える人間にならないといけない。武蔵の三理想に結び付けて言うなら、それは東西文化融合を為し得る人物ということですよね。そういう人物になるためには、もっともっと自分のことを相対化できる人物にならなきゃいけないわけですよ。武蔵という恵まれた環境で教育を受けるってことはすごく大事ですけど、座学をしているだけじゃダメ。いくらニュースで自分とは違う立場や考え方の人たちがいるって情報だけを見聞きしても、それが自分の血肉とはなりません。」
「自分が興味をもっている分野だけでいいから、それをとっかかりにして、外の世界に触れるっていう、その最初の一歩があることで、自分の頭の中にいままで考えてなかったような疑問が浮かんでくると思うんですね。そういうこところから自分に対しても他者に対しても理解が深まって、それが大人になるってことじゃないですか?」
☆やはり、武蔵の生徒らしい考え方。「それが大人になるってことじゃないですか?」と問われても、世間では、そんな自己変容型知性の大人ばかりではないことは、明らかである。指示待ちが当然と思っている環境順応型知性の大人がたくさんいるではないか。
☆しかし、武蔵の生徒は、中高6年間で、自分を相対化して自己と他者を理解するために様々な問いを自分に投げかけられる自己変容型知性の持ち主になることを当たり前のように議論できる学校文化を誇りに思っているということだろう。
☆「自分が興味をもっている分野だけでいいから」とさりげなく語っているが、興味を持つということが当たり前だという前提が武蔵にはある。
☆これは、麻布にも似た構造がある。両校の入試問題がすでに、そういう資質を持っていないとできい問題であるというところからも、了解できる。
☆しかしながら、興味を持っていなくても問題を解決することはできる。むしろ問題解決すること自体に興味と関心を持っているという生徒もいる。開成と駒東の入試問題は、テーマという内容に関する興味と関心が前提になっていない。
☆問題解決というプロセスそのものに興味と関心が高い生徒が多いだろう。
☆麻布と武蔵は、啓蒙思想的な≪私学の系譜≫が脈脈と続いている。しかし、開成や駒東は、どちらかというと≪官学の系譜≫に親和性のある無前提から論理的に問題を解決していく実証主義的な校風がある。
☆麻布と武蔵は、関係総体主義的発想があるだろうし、開成や駒東は、要素還元主義的な合理主義の発想。
☆どちらがよいのか、それは分からない。趣味の問題かもしれない。
☆さて、しかし、この生徒の特色は、日本全体の中学受験生の3%の話である。おおたさんの本を読ん方全員が、この武蔵の生徒に自分の子供を重ね合わせられるとは限らない。そこは相対化して読むとよい。
☆まだまだ、自分は何に興味と関心を持っているのかわからないという生徒も多いはずだ。それに、実は興味と関心を一つに絞るようなエリートのお話は、日本の教育をダメにしてきた呪縛言説だったのかもしれない。
☆そこには排除の論理が前提に眠っている。自分の興味と関心からしか話せない大人が多いがゆえに、創発が起こらない。その分野においてクリエイティビティを発揮するが、それ以外には興味がないという人間をたくさん作りだしているのが、日本のモノづくり国家かもしれない。
☆興味と関心も多様性として広がっていく教育の論理もある。だから、興味と関心を持っていることを前提に入学試験を行う必要もないし、興味と関心を排除する必要もない。あらゆるものに興味と関心を持てる思考システムを育てる可能性を入試に反映しているのが、工学院と聖学院である。
☆中学受験生の97%は、まだまだ潜在的な創造的才能を内に秘めている段階の生徒。そのような生徒が中高6年間で大きく変貌し、あらゆるもに興味と関心を持てる多様性を育てるのが工学院や聖学院。
☆つまり、アンチ専門主義的な発想も学びの中に組み込んでいるのである。専門主義的な学問の世界だけで、学際的な学びを行うのではなく、一見学問の対象でないものにも興味と関心を抱き、そこに生きている人々と当事者意識を抱けるナチュラルリーダーとして活躍できるキャリアデザインを描ける教育ということ。
☆教育を中学受験生3%の子供たちを基準にして作ってきたのが文科省だし、今もそうだ。世界から見たら、なんて創造的才能抑圧教育国家なのかということだろう。
☆だから、学校選択は、武蔵の生徒ではないが、自分や自分の子供を相対化して眺めてみることが必要なのである。つまり、相対化するためには、外から見なければならないが、その外とは、受験市場ではなく、世界そのものから眺めてみるということなのだ。ミネルバ大学のリサーチをされたし。すると今何が重要かヒントになる。そこから、学校選択してみてはいかがだろうか。
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