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学校選択の目【7】哲学教室の在り方

☆2020年大学入試改革及び学習指導要領改訂に伴い、「主体的・対話的で深い学び」という名のアクティブ・ラーニングが、現場で広まりつつある。
 
☆そして、どういうわけだが、哲学教室なるものも少しずつ広がっている。それはリベラルアーツとしては歓迎だが、あらゆるものはクリティカルにチェックしなければならない。哲学教室もその例外ではない。
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(この本はおもしろい。読書会をするのではなく、この本の発想を共有するワークショップができる教師が新しい哲学授業をできる人材だ。)
 
 
☆哲学教室の講師をみていると、いろいろな講師がいるが、自分がどんな哲学的世界を足場にして語っているかを可視化しない場合がある。哲学者は多様であるが、それをカテゴライズすると、結局普遍論争からあまり変わっていない。
 
☆普遍論争のとらえ方も多様であるが、カントによって立つ哲学者、ヘーゲルによって立つ哲学者は、ヒュームによって立つ哲学者から見れば、同じ仲間の哲学だ。何を言いたいのかというと、サンデル教授のように、哲学者たちの考え方やもの見方の違いや共通点を自覚しないと、一つの考え方やモノの見方に囚われてしまうということなのだ。
 
☆哲学授業を行っている先生方に話をお聞きすると、プラトンから20世紀までの哲学者のいろいろな考え方をインテグレイトしていると語ってくれる。
 
☆しかし、それを超えられたかどうかはわからないが、それを超えようとしている若い哲学者がたくさんいる昨今、その文脈をインテグレイトしないで、哲学授業を行うと、新たな世界を見通せない。
 
☆今の生徒と哲学授業をやるときには、いろいろな哲学者の考え方やモノの見方をいったん相対化する必要がある。そういう意味では、まずはサンデル教授のように、一つの事例を考えるとき、その背景にある哲学者の多様な考え方やものの見方を相対化するタイプの哲学授業が望ましい。
 
☆どのメタ思考を選ぶか判断する根拠を養い、そしてそれに基づき何をするのか企画提案できるようになるのが、今求められている哲学授業である。ここは、立ち止まって、少し考えないと、いつも小論文対策でやっているのと同じだとさらりと置き換えられてしまう。
☆どんなエビデンスに基づいて、自分の考えを表現できるかは、たしかに大事であるが、そのエビデンスを活用するもともとの思考方法をチェックすることが必要なのだ。どの思考方法がわかれば、残念なことに、あとは自ずとわかってしまう。
 
☆しかし、そこは可視化されていないから、なかなか意識できない。だからメタ思考と表現したわけだ。カントなのかヘーゲルなのか、どちらでもよいが、そこから派出する方向性は同じ。その差異のどちらを選ぶかを議論しても、パラダイムは変わらない。
 
☆ドイツは、近代法の形成期に、サヴィニーが出現。その影響を受けたのが、明治時代の東大初綜理加藤弘之。ドイツ同様、法典論争で、啓蒙思想という哲学的カテゴリーを排除した。
 
☆つまり、今の公立学校の拠って立つところは、そこなのだ。私立学校はそのメタ思考に拠ってつっていない。それゆえ、自由を論じている。それなのに、公立学校で哲学教室のようなことをやろうとすると、本来はルソー―カント―ヘーゲルの流れの自由論を持ち出すのは危ないとみなされるのである。
 
☆それなのに、その哲学が、公立学校でも広がろうとしている。あるいは、尊重されている。それで、公立学校の教師をやり続けるとしたら、それは極めて革命的なことで、私立学校としてはウェルカムだが、その先生は仕事が続けられるのか心配になる。
 
☆それゆえ、哲学教室は、私立学校で流行る分には、心配がない。あとは、使い方を間違いなければよいのだ。
 
☆工学院のように英語で哲学授業を行うと、それが伝統的な哲学的思考であろうと、英語で行われているがために、英語圏の哲学思考で、日本とはどう違うのかという相対化が常に発動できる。それゆえ、このケースは哲学授業の講師の価値観をあまり気にしなくてよい。
 
☆聖学院が行ったとしても、同校のキリスト教主義的価値観があるから、クリティアカルチェックの基準が自分たちの中にある。それゆえ、哲学授業は大いに効果がある。それに、加藤弘之に、東大の学生時代、論戦を挑んだのが、聖学院の初代校長石川角次郎だ。かれは、加藤の思想に失望し、米国で学びなおし、帰国。そして聖学院創設に尽力する。
 
☆麻布の土曜に行われているある意味新教養講座は、麻布自体の教育理念に「自由」を守る「言葉」へのこだわりをフルに発揮させる講座だから、哲学授業でもなんでも大丈夫だし、哲学談議が大好きな生徒もそもそもたくさんいる。
 
☆大躍進中の海城学園は、改革リーダーである特別校長補佐の中田先生自身が、最先端を行く哲学者、メタ思考者であるから、ますます面白い学校になっている。
 
☆だが、日本の伝統的なものを理念にしている私立学校で、中田先生のような方がいない場合、またいないから導入してしまうのだが、日本語だけで哲学授業をやると、講師の方が、自分の拠って立つ哲学のカテゴリーをはっきりさせない限り、その思考の枠組みに無自覚に回収されてしまう生徒が出てきてしまう。
 
☆ことばの自由を生み出すはずの哲学が、使い方を間違えると、思考の牢獄を創ってしまう。学校説明会に行って、そのような自覚をもって、哲学授業を導入しているかどうかは、要チェックである。
 
☆私は、哲学授業をやっているところが、思考力入試をやっていたら、そのチェックができていて、生徒自身が既存の枠を超えて新たな枠組みを創り出せる環境があるとみなしてよいと思う。工学院はまさにそうだし、聖学院もそうだ。そして、麻布や武蔵の入試は、もともと深い思考力を問う入試問題で、4科目入試ではなく、思考力入試と置き換えてもなんら問題ないと確信している。

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