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学校選択の目【33】これからの時代に求められる生きる力

☆おおたとしまさ氏が、読売新聞10/7(土) 12:30配信で、「これからの時代に求められる「生きる力」とは?」という論考を述べている。氏は、正しく≪私学の系譜≫の立ち位置にいるので、私立学校を選択する場合、大いに参考になると思う。

☆しかしながら、≪私学の系譜≫の現場は、もう少しリアルな葛藤の場である。学校選択をする場合、どこの学校でも起こしている葛藤ではあるが、その葛藤の種類は違う。どこの葛藤の場を選ぶかによって、生徒の成長の仕方は違うから、そこは見抜いた方がよい。

☆公立学校の場合は、原則文科省=自治体と心ある教師の精神的葛藤と葛藤を起こさないように沈黙していようという環境順応型知性というリアルな場がある。それが意識的自覚的に生まれているわけではないから、一般には気づかれない。
 
☆そして、そこで葛藤は、解決されない。心ある教師の葛藤が個人的に解決されることはたくさんある。しかし、それが教育全体への波及には至らない。
 
☆それゆえ、実は、学習指導要領で、「生きる力」だとか「学力の3要素」だとかいわれても、そんな理想論的なお話は、現場では関係ない。そもそも、おおた氏が≪1996年文部省中央教育審議会「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」≫から引用している次のコンセプトは文科省の戦略的自己矛盾でしかない。
これからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。[生きる力]は、全人的な力であり、幅広く様々な観点から敷衍(ふえん)することができる。
☆おおた氏が自ら福沢諭吉の考え方を要約している次の文と一致すると看破したとき、そのことが同時に証明されてしまったのだ。
福沢諭吉は「文明教育論」の中で次のように説いた。要約すれば、「世界万物についての知識を完全に教えることなどできないが、未知なる状況に接しても狼狽(ろうばい)することなく、道理を見極めて対処する能力を発育することならできる。学校はそれこそをすべきところであり、ものを教える場所ではない」
☆つまり、これは福沢諭吉の時代「天賦人権説」と呼ばれていた啓蒙思想の考え方である。どういうことかというと、その当時、国は、この天賦人権説を捨てて、法実証主義に邁進した。そして、今ものその考えを捨てていない。
 
☆ゆとり教育がうまくいかなかったのではなく、はじめから≪官学の系譜≫が捨てたものを、突然ゆとり教育として「生きる力」を位置づけたものだから、うまくいかないと計算されていたはずだ。技術論的に進むだけだから、精神的には何も変わらず、技術論的に学びの時間を減らしただけで終わる。
 
☆現場では、自然状態という理想を考える発想は、トレーニングされていない。それは今の自民党ではないけれど、蒙昧だとされてきたわけだ。
 
☆しかし、それでも、今も主体的・対話的な深い学びと呼ばれている。これもまた、現場ではうまくいかない。しかし、技術論的にICT[ははいるし、4技能英語は導入される。それが全人教育的な立場から活用されるはずはないと、奥の院では計画通りということだろう。
☆大義名分がないのと、ICTや英語4技能を導入する予算を生み出せないし、あとはご想像にまかせるけれど、巷で起きているようなことを生み出せないわけだ。
 
☆ところが、≪私学の系譜≫は、まともに自然状態における理想(自然状態のとらえ方はロック、ホッブス、ルソーなどみな違うから、精査しなければならないけれど)を建学の精神に変換して、それを実行しようとする。
 
☆これが、自然状態と社会状態の葛藤なのであり、これについてどう調整するかが各啓蒙思想家がそれぞれ論じたことだったのだろう。
 
☆それは、私立学校の現場でも同じだ。おおた氏が次のように言う時、ただしく自然状態における理想を語っているわけだ。
今、日本でもてはやされている英会話やIT知識、プレゼンテーション能力などは「生きるためのスキル」に過ぎない。
 これらのスキルを子供たちに与えることは、スマホにアプリをインストールするようなもの。新しいスキルが必要になるたびに、インストールしてあげなければいけない。その教育観自体が、旧来の受動的学力観に根ざしている。
☆たしかに、公立では、悲しいことに、そうなのだ。自然状態なき社会システムの要素として教育は作動していることが善なのであるから。そのシステムに従属することが承認欲求が満たされるわけだから。
 
☆が、私立学校の社会状態というリアルな現場では、自然状態の理想即現実にしようと葛藤が起きている。そのとき、ICTや英語4技能は「生きるためのスキルに過ぎない」ではなく、理想即現実にするための人間の心身の延長としてとらえるのである。
 
☆これが、19世紀末世界を席巻した≪私学の系譜≫と同期した考え方だ。道具とは、人間と切り離されたモノではない。道具と人間の心身は、関係総体として人間の存在を形成する関数関係にある。つまり、a×人間の心身×b×道具=生きる力。
 
☆この関数方程式をどう作るのか、私学の現場では葛藤が起きている。そして、係数a、bをどのように設定するか、どのような心身を設定するか、どのような道具を揃えるかによって、生きる力の全貌は違ってくる。
 
☆おおた氏の方程式は、a×人間の心身+b×道具=生きる力である。bが0でも、道具が0でも生きる力は残る。そして、この考え方を、東大初綜理加藤弘之は転倒し、aを0としたのである。もともと、加藤弘之は福沢諭吉と同士だったのだが、転向したのである。転向できたのは、足し算で考えていたからだ。
 
☆しかし、≪私学の系譜≫の中には、「a×人間の心身×b×道具=生きる力」と掛け算で考える私立学校もある。この場合、bや道具が0の場合、すべてが無意味と化する。それが善いか悪いかは、わからない。bがマイナスだった場合、その学校は命とりなわけだし。
 
☆いわゆる御三家のように、高偏差値の生徒が入学してくる学校は、「a×人間の心身+b×道具=生きる力」なる方程式で考えられる。道具は極力すくなくてよいのかもしれない。
 
☆しかし、そうでない私立学校は、そもそも塾歴社会という時代のマイナス変容に抗うしかない。御三家は便上していればよい。理想的な自然状態を吹いていればよいのだろう。
 
☆しかし、そうでない私立学校は、「a×人間の心身×b×道具=生きる力」という方程式で立ち臨む以外にない。
 
☆どちらの方程式を選ぶのもよいが、そうでない私立学校で、「a×人間の心身+b×道具=生きる力」なる方程式を選んだらどうなるだろう。進路指導という道具だけで、立ち臨んだとしても、果たして生きる力は急成長できるだろうか?
 
☆各私立学校の理想即現実の葛藤は、どのように方程式を設定しているかということなのだ。
 
 

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