聖学院の授業の根っこ メタルーブリックの新存在論
☆しかし、聖学院の場合、それぞれの先生方が自分の授業実践を7分間で再現し、そのプレゼンを行っている間にスクライビングを別の先生がしてさらに再現。
☆そのあと、聖学院「メタルーブリック」で、その授業を分析していく。聖学院のメタルーブリックは3つの領域が埋め込まれている。
1)認知構造
2)感情知構造
3)感覚知(身体知)構造
☆このそれぞれの構造が、3重螺旋のようにら絡み合っている。この研究会に挑む先生方は、自分の授業をメタルーブリックという鏡でモニタリングして立ち臨む。そして、教科の違う仲間から、さらに多重モニタリングをしてもらう。
☆モニタリング、つまりこのマルチプル・リフレクションは、外部の研修ではまず経験することができない。研修というのは、外部研修と内製化した研修の両方が必要だというのは、こういうことなのだ。
☆セルフ・リフレクションとマルチプル・リフレクション、しかもリアリスティックなリフレクションが三つ巴になると、相互リフレクションが生まれ、互いに気づきが起こる。
☆授業の再現者のみならず、参加者全員が授業主体に変容しているわけだ。この過程で、授業再現者をはじめ参加者全員が、小さな授業変革を行う。しかし、この小さな一歩が、世界を変える大きな一歩である。
☆というのも、聖学院のメタルーブリックは、ベースは認知×感情知×身体知トータルの人間存在を映し出すからだ。
☆互いに思考し対話するとき、実は声の大きさ、しぐさ、表情などの身体知が微妙に影響しているし、その微妙な影響は感情知を作動させる。
☆思考や対話は、その善き影響を受けるかそうでない影響を受ける。したがって、身体という感覚知が研ぎ澄まされ、感情知が豊かになっていることは、学びにおいて極めて重要なのだ。
☆だから、学びの教材だけではなく、感覚知や感情知を効果的に生み出す学びの空間とか音とかは重要なのである。
☆そして、それが巧まなければ気づかない「存在」なのである。そのいつもは気づかない「存在」。それが、メタルーブリックで気遣うことによって開示されていくのが聖学院の学びの奥義である。
☆私たちは、いろいろな研修やワークショップが、実際には現代数学や現代哲学をルーツにするものであることを、研修を主催する当時者も忘却している。つまり、ハイデガーのいうところの「現存在」であり、「存在」を忘却している。
☆研修ジプシーと呼ばれる参加者もいるように、「存在」を希求しながら「現存在」の牢獄から抜け出すことができないケースがほとんど。日常生活の中で大切な「現存在」の根っこである「存在」を開示するには、聖学院のような研究が必要だろう。
☆昨今喧しい教師の働き方改革とは、「現存在」が「存在」を忘却している不安から目をそらす方向でうごきがちだ。「存在」に向き合うことが本来的な「働き改革」だとするならば、それができる学校組織の1つは聖学院だろう。
☆伊藤豊先生が、授業における感情知について語る時、たしかにそこに「存在」が開かれる。視覚的というよりは、耳を澄ますことによって。
☆日々「存在」を開示し、向き合える授業が広がっている聖学院と女子聖学院。人気の秘密は、ここにあるのだろう。
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