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アートの今 思考論的転回の波 教育改革へ影響か

☆知人の若手アーティストたちの活動拠点は、東南アジア。インドネシア、シンガポール、香港、ときどき日本を訪れる。東インド会社以来、西洋的感覚が混入しつつも、そこから脱する道を探り続けてきた東南アジア文化がゆえに、彼らのアート・マーケット自体も、そしてそこにおけるポジショニングも新しい。

☆そして、この流れが当然STEAM教育に影響を与えているが、残念ながらわたしたち日本人の多くはこの新しい西洋美学をひっくりかえすアートの動きに気づいていない。だから、2020年以降の大学入試改革や教育改革も古い時代認識から脱するコトがなかなか難しそうだ。

☆そんなことを、アーティストたちと対話しながら考えていた時、ちょうど月刊誌「美術手帖2017年12月号」で、こんな特集を行っていた。「これからの美術がわかるキーワード100」。Amazonの内容紹介にはこうある。
 
政治・社会的転換、テクノロジーの発達、環境問題など、人類を取り巻く世界は、この10年、大きな変化の渦中にある。そこで、つねに「同時代」を扱ってきた「コンテンポラリー・アート」とは何かを100のキーワードを通して、いま改めて問い直してみたい。そこから見える、未来の世界と人間、そして美術はどんな姿で存在しているだろうか。来たるべき2020年代への視座を描いてみよう。
 
☆文学や現代思想、美術、建築、数学は、その時代その時代の精神を敏感に感じているし、あるいは逆に時代精神を刺激してもいるが、日本の教育はワンテンポもツーテンポも遅れている。教育はトレンドを追うものではないという考えもあるが、シンプルには「日本の」という修飾語をつけたのは、実は「学習指導要領」に縛られているからなのだ。
 
☆大学は関係ないと思うかもしれないが、大学入試というアドミッションポリシーの部分は、学習指導要領から逸脱できないのである。
 
☆学習指導要領にいまここでの文学や現代思想、美術、建築、数学などの新しい用語が使われているのをみたことがない。アクティブラーニングも、最終的には「主体的・対話的で深い学び」という文言に回収されてしまう。
 
☆それでも、従来的感覚では「主体的学び」でよかったにもかかわらず、「対話的で深い」を挿入した。ここになんとか新しい潮流の流れ込む余地をつくったということだろう。
 
☆コンテンポラリーアートの今は、アート作品の「思弁的実在論」的接近、グローバルアートヒストリー的接近などがある。要は西洋美学からのビヨンドである。「脱中心化」というキーワードが美術手帖で使われていた。
 
☆なんだ「脱中心化」なんて1970年代の現代思想やピアジェの系譜の構成主義的心理学のキーワードではないか、美術界がやっと追いついてきだけではないかと思われるかもしれない。
 
☆しかし、それは「グローバル」といえば、すぐに強欲資本主義を思い浮かべるのと同じで、言葉の多義的な背景を考えることをしないと、そういうお話になってしまうに過ぎない。
 
☆ピアジェの脱中心化は、子供の成長段階で必ずやってくる自己中心的な状態を脱してさらに成長していくことを言っている。サイードやローティなどは、西洋的な認識論や言語論からの転回として脱中心化という言葉を使っていただろう。
 
☆しかし、存在論的実在論を提唱し始めたカンタン・メイヤスーによれば、「世界」と「認識」の相関関係を論じてきた西洋的なものの見方は、「世界」を切り捨ててきた。主体によって「認識」できる世界が世界であって、「認識」によらない「世界」は不可知だとされてきた。
 
☆それはそれで「認識論的転回」「言語論的転回」を生み出してきて、それまでの権力的な世界観や言語中心主義的な世界観を「脱中心化」できてきたのだろう。
 
☆しかし、その「脱中心化」は「認識」中心主義をかたちづくってしまった。主体中心主義を築いてきてしまった。
 
☆ところが、それでも地球は回るとガリレオが言ったように、主体や認識がなくても、それでも「世界」は存在する。その「世界」をいかにして知ることができるのか?このときもちろん、知ろうとするとそれは主体による「認識」を媒介せざるを得ない。
 
☆ではどうするか?Whatはどこまでいっても不確かで推論し続ける以外にないが、その推論は、認識から自立している数学的形式というものが使えると。「世界」はWhatで接近すると正解は一つではないが、Howという意味で形式化することはできるのだと。この「主体」なしの「世界」をメイヤスーは「祖先以前性」という。なんか文化人類学的な見方にも通じるような方法論だ。
 
☆ともあれ、これが、「思弁的実在論」と訳されている“Speculative Realism”のざっくりとした発想。Speculartiveとは「認識」を介在としない「世界」を不確かだけれど推論するという意味だろう。それが「思弁的」と訳されたのだと思う。
 
☆かくして、20世紀型教育においては、「認識」を形成することこそが論理的思考だったのだが、21世紀型教育においては、この「認識」の介在をできるだけカッコにいれて、批判的・創造的に思考することで、欧米の「認識」中心主義から脱しようという新しい思考力が求められているということなのではないか。
 
☆まさに「思考論的転回」ではないか。ということは、時代精神とシンクロする中学入試において、新しい思考力型入試市場が10,000人規模で生まれている背景には、「世界」と「認識」の関係の転換が起きているということを示唆しているのではあるまいか。
 
 
 

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