学問・資格

学び野[36]言葉のフィクション性

小5授業で自殺方法を紹介「睡眠薬や練炭も」…福岡・篠栗(5月30日12時12分配信 読売新聞)によると、

福岡県篠栗(ささぐり)町の北勢門(きたせと)小(岩崎陽一校長、708人)で、5年の担任男性講師(37)が28日の授業中、児童に対し、自殺する方法を具体的に紹介していたことが分かった。・・・講師は「児童から『こわい話をしてくれないか』などと言われたのがきっかけだった。命は大切で、自殺をせずに力強く生きてほしいと伝えるつもりだったが、力不足で不適切な発言をしてしまった」と反省しているという。

☆言葉のフィクション性の了解が、教師と生徒との間で共有できなかったのだと思います。芥川龍之介や太宰治の人生を語る中で、自殺の問題はでてきます。この話にいきつくまで、時間がかかります。

☆そのうち、言葉のフィクション性に気づく生徒が多くなるはず。しかし、これとてもまだまだ危ないですね。ふだんの国語の授業で、言葉の構造差異を了解できる言葉観をきちんと理解できるプログラムが展開されていなければならいでしょう。

☆言葉の力とは、言葉の意味の記憶でもないし、その意味が使えればそれでよいというわけではないのですね。

☆言葉が放たれると、行動や気持ちや想像も喚起します。だから、言葉の力のマネジメント力を育成することが大事ですね。

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学び野[35]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか(了)

☆第1回The授業リンクの講師松田先生の授業について、つれづれなるままに考えてきましたが、まずはいったんまとめましょう。そして、今度は松田先生と議論して、また考えていきたいと思っています。もっとも、松田先生は、お忙しいですから、いつ議論できるチャンスが訪れるかは神のみぞ知るですが^^)。

☆さて、今まで書いてきたことを箇条書きにして、まずはまとめてみます。なぜ松田先生の授業はターニングポイントに立っているのか?という問いに対する回答ですね。

①日本の公教育が到達していない世界標準の思考レベルを超えている。

②異文化を理解するコモンセンスとしてのコミュニケーションの成立。

③商品化された多元的なキャラに気づき、自分の多面的なキャラと自分のキャラクターの統一に挑む居場所の成立。

④他者の考えや感じ方を知り自由な足場としての居場所づくりの成立。

⑤教育の質の競争を生みだすResonant Leadershipの発揮。

⑥授業の新たな組織づくり。

☆今まで書きたかったことは以上のような理由です。①と②については私よりもむしろ岡部憲治さんの方が、論理的に詳細に分析していますので、そちらをご覧ください。

The 授業リンク -松田先生の授業 - 了

☆①から⑥の項目を満たす授業が、もし多くの先生によって行われるようになったとしたらどうでしょう。想像してみてください。

想像・想像・想像・・・・・・・・・

☆どうです。世界は変わるということが了解できたことと思います。しかしです。この授業はコストがかかるんですね。今のところ松田先生は完全にボランティアでやっているわけです。企業家が見れば、それはありがたいスタッフですが、このスタッフのクオリティをどう維持し、広めていくか考えるでしょう。もし強い信念を持った経営者やオーナーであれば、プライスの決定を高めに設定することは間違いありません。目先の利益しか考えない経営者やオーナーは、事業化はしないでしょう。

☆さて、学校経営においてこれを当てはめるとするとどうなるのでしょうか。このような授業をやらない理由は、本当はただ一つなのです。経営上の問題です。明大明治の授業料は年間52万円前後です。これに補助金が出て、1人当たり80万円から90万円ぐらいの授業料を払っていることになりますかね。あくまで予想に過ぎませんが。慶応普通部は授業料だけで90万円弱です。

☆慶応普通部だって、すべての先生が松田先生のような授業をするわけではありませんが、松田先生の授業の一部分はどの先生も実施します。コラボとプレゼンは当り前だと思います。明大明治はどうでしょう。たぶん全員ではないと思います。その差は結局帰属収入の差なのです。

☆帰属収入の60~70%が人件費だとすると、授業料だけでは人件費は賄えないでしょう。そうすると学内に倹約の圧力が無意識のうちに生まれますね。倹約の圧力は、創造性を萎縮させ、事務的になります。その状況を脱しようなどという動きになると出る杭は打たれるということになるのは必然の流れです。

☆ところが明大明治は、ホームページで松田先生の授業を明大明治の授業として自己表現しているわけですね。これは革命的なことなのです。ターニングポイントの意味は、教育の論理のチェンジだけではなく、経営の論理のチェンジも示唆しているのです。

☆もし松田先生のような授業を、すべての先生が行ったら、授業料をアップするしかないのです。新商品を作って儲けることは法人型NPOである学校法人にはできません。帰属収入で経営していくしかないのです。倹約倹約で先生方にがまんしてもらうか、先生方のクオリティの高い授業にリーズナブルな授業料を投資してもらうかどちらかです。

☆不足知識を埋め合わせするような講義型授業をやり続けているのに、授業料をアップせよは保護者は納得しません。しかし、4:1の割合で、講義型と松田型の授業を実行したなら、年間授業料を60万にするのは保護者は了解するでしょう。

☆2:1の割合でやったのなら、年間授業料80万円にしてもよいでしょう。松田先生の授業が、なぜターニングポイントに位置しているかというと、教育の論理と経営の論理のパラダイムを転換させるからです。

☆このシーズンは、各学校で理事会が目白押しでしょう。理事会には学校長以外に企業のオーナーや学識者も入っていると思います。彼らは授業の中身なんてわからないので、授業で経営ができるなどという発想をほとんど持ち得ていません。これが日本の教育の本当の悲劇であり、隠蔽され続けてきたリスクなのです。

☆彼らが、社会起業の精神や市民経済の精神を理解するにはもう5年かかるでしょう。そのときまで、松田先生のような授業に理想と夢を持ち続けてもらうには、コミュニティが必要です。その一つがThe授業リンクなのだと思います。

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学び野[34]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか⑥

☆松田先生の授業の大きなねらいは、生徒の居場所づくりです。ジグソー法によるプログラムは、互いの脳内の思いや考えていることを音声というテキストに表現し合います。こうなってくると実はここでポイントになるのは生徒の読解リテラシーです。

☆読解リテラシーと居場所づくりがどう関係するのか?それは大ありであり、このことについて気づかないと生徒の居場所づくりは不発に終わるのです。「居場所づくり」とは松田先生以外にもよく使われるキーワードですが、言語構造の差異があり過ぎます。

☆物理的な落ち着く場所という意味でも使うでしょうが、松田先生はそれだけを意味しているのではありません。良好な人間関係作りを意味する場合もあるでしょうが、松田先生はそれだけを意味しているわけではありません。茂木健一郎さんなら脳がいろいろ考えて集中している状態を居場所ができている状態というでしょうか。松田先生はもちろんそれも意味していますが、それだけではありません。

☆何を言っているのかと思われるでしょうが、松田先生の考える「居場所づくり」を了解するには、実は国際教育研究家の岡部憲治さんのPISAの読解リテラシーの考え方が補助線となります。ちょうど岡部さんが松田先生のジグソー法(The読解リテラシーで行った分だけの分析ですが)を読解リテラシーの思考のレベルに合わせて批評しています。詳しくはそちらをご覧ください。

☆ご覧頂いたという前提で、話を進めていきますね。さて、松田先生のジグソー法ですが、岡部さんも分析しているように、レベル6まで考えるプログラムとして成立するのですね。今回はある種デモンストレーションですからプログラムとしてはレベル4の論理的思考までが想定されていますが、チームによってはそれを飛び越えレベル6まで到達しているところもあったでしょう。

☆私の属していたチームは、おそらくレベル6まで到達しましたね(自画自賛 ^^;)。興味のある社会的事件としては、アメリカのサブプライムローン問題の背景に見え隠れするアメリカの世界戦略、ミャンマーのサイクロンとそれに対する政府の人権を無視するような対応、中国四川省の大地震から見える政治経済問題、佐世保以来の少年少女の事件といったものを互いに確認し、問題の共通点と違いの整理や分類を行いました。しかし、最終的には一見結びつかないこれらの問題の背景にディスコミュニケーションや情報の格差、貧富の格差、強者弱者格差などの問題が権力問題につながっているという議論になりました。

☆論理的に話すだけではなく、批判的視点が加わっているし、横断的複眼的な視点は創造的な思考を生み出しています。レベル6に到達しているわけです。

☆それはともかく、この議論の最中に、生徒たちがそれぞれキャラを出しはじめます。まとめ役だとか記録するが役割だとか批判する役割だとか・・・。これははじめは表面的なのですが、だんだんと思考のレベルを促進させる役割なのか、阻害する役割なのか、停滞させる役割なのか、内的なキャラが浮き彫りになってきます。

☆この内的なキャラはさらに、結局倫理観や価値観や感じ方に結びついていきます。つまりキャラクターですね。同じレベル4や5、6でもこのキャラクターによって中身は大きく違ってきます。キャラクターが空集合の場合、キャラは上滑りをし浮遊感と空虚感で充満します。

☆逆もあります。キャラの言動が、キャラクターを生み出していくというケースですね。ここらへんはあまりに多様な動きでとらえにくいのですが、ここをとらえようとして松田先生が対話を仕掛けるのですね。このとき居場所が広がります。キャラとキャラクターが離れたり結びついたりしながら、他の参加者のキャラとキャラクターの相関とさらに結びついたとき、思考のレベルの上昇と人間関係のつながりが広がるのです。その瞬間が「居場所」です。この瞬間の連続性こそが「居場所づくり」なのではないでしょうか。

☆逆に言えば、思考のレベルをここまででよいと限定したり、人間関係を役割分担的に限定したりすると、そこには居場所への抑圧が生まれます。エディプス・コンプレックスというのもその一つの形態ですね。「居場所づくり」はこのような得体の知れない抑圧を見える化し、それに対応する内的な知性の塊そのものです。この対応の仕方にしてもキャラクターは違います。回避したり、迂回したり、粉砕したり、乗り超えたり、握手したり・・・といろいろです。

☆ただし、明大明治のような私学では、教育理念が共有されているので、キャラクターは明大明治のアイデンティティとして、生徒たちは受け入れられるのですね。だからキャラとキャラクターの関係は、もしかしたら教育困難校とか進路多様校と、これまた抑圧的に呼ばれてしまっている学校に通っている生徒よりとらえやすいかもしれません。ジグソー法は、その生徒がとりまく環境まで明らかにしてしまう可能性があります。

☆今回参加したメンバーのほとんどが教師でしたから、ゆるやかな理念共同体としてキャラクターがはじめから共通していた可能性があります。それゆえスーッとプログラムにはいれたのかも知れません。

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学び野[33]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか⑤

☆松田先生の授業の核心になかなかせまれないで、ぐるぐる周縁を歩いているような感じで気づいたことを書いているのですが、今回は少し核心に向かえそうな気がします。

☆松田先生の議論や編集やプレゼンをジグソー法のプログラムで進める手法や徹底的に生徒たちが書いた興味と関心事を整理分類していく手法、そして生徒たちが書いたものすべてにコメントを返していく手法のゴールはなんなのでしょうか。

☆座学や講義形式の授業では絶対にできないコトがゴールなのは、およそ予想がつくと思います。いったいそれは何なのか。1人ひとりの個性と才能を共有するコトだと思います。

☆それは、別に松田先生の授業でなくても了解することは可能なのではないかと言われるかもしれません。対話型の授業、プレゼン、振り返り、コメントのすべての要素が入っている場合はそれは可能です。

☆しかし、講義型の授業では、それは難しいのではないでしょうか。担任の先生は、分かっていると思うでしょうが、松田先生のような授業を通してでなければ、意外にも決定的なことを見逃してしまう場合もあるのです。

☆一般には、学力情報と性格や態度を教師は了解するのですが、性格や態度についてレッテル貼りになる場合が多いし、教科の専門性において優れていればいるほど、レッテル貼りをしていることに気づかないケースが多いのですね。しかし、教師間のコミュニケーションが豊かな学校では、これによって偏った生徒の見方をいつの間にか補正しているので救われているのですが・・・。

☆この補正とはどういうことかというと、最近の言葉で言えば、キャラとキャラクターのGAPがわかるということなのです。このGAPに気づかないと、態度だけ見て、あるいは言動だけ見て、1人ひとりの生徒の個性や才能を想定します。経験からいって当たる場合も多いのでしょうが、外した場合、教師と生徒は互いに信頼しているがゆえに、お互いに気づかないうちに鬱屈した雰囲気になります。先生は君を信じているぞ。先生のことを尊敬しています。なのになぜ何かが違うんだろう。でも互いに信頼し合っているわけだしとなるのですね。

☆パワハラ発言や言葉の暴力など、それはもはや論外で、実は互いに信じ合っているのに、うまくいかないということこそ隠れたリスクなのです。この隠れたリスクが、松田先生の授業で見えてくるわけです。

☆生徒にとって、居場所づくりとは、まさにこの自分のキャラと自分のキャラクターのせめぎあいのなかでやっとのことで生まれるバランスの境地なんですね。自分のキャラクターを前面に押し出せば、他者との関係はあまりに重たくなりますが、キャラクターを隠して、キャラだけで人間関係を造っていくと、自分らしさを本音の部分で出せないわけですから、それはそれで重苦しくなるんですね。自分の中でのバランスと相手とのバランスをとれるようになるためには、自分のキャラとキャラクター、他者のキャラとキャラクターの四肢的なGAPを振り返る仕掛けが肝要なのです。

☆古典的な手法ではジョハリの窓というのがあるのですが、これだけではキャラとキャラクターの差異が見えてこないのですね。

☆というのも、ジョハリの窓が基礎としてきた考え方は、従来のアイデンティティのシェアとかいう話だったと思います。あるいは「エス―エゴ―スーパーエゴ」という構造で語られてきたことかもしれません。しかし、それではかなり抑圧的なんですね。生徒は個性といわれながら、1つの価値観や感じ方、道徳を共有する一元的な同心円の社会構成の中に位置付けられてしまってきたのです。

☆ところが21世紀の社会構成は多元的です。同心円に位置付けるというか鋳型にはめこむことはできなくなっているのです。ここらへんのことをもう少し考えてみましょう。多元的といっても小さな同心円がたくさんできているだけだとしたら、それは悲劇ですから。

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学び野[32]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか④

☆松田先生の授業について、このブログに書きこもうと思った矢先、それまで聴いていたモーツアルトのアダージョ(オーボエなどの曲)のCDを、ブルックナーの交響曲七番のCDに取り替えました。同じアダージョでも重層の響をイメージしながらではないと松田先生の授業は語れないなぁと気づいたからです。

☆授業のテンポとか旋律のイメージは、教師によって違うでしょうが、松田先生の場合はブルックナーの7番かなあと。私が研修でジグゾー法をやるときはモーツアルトの38番か魔笛をイメージしながらやります。ぐるぐるメッソドを使うときはマーラーのシンフォニー5番のアダージョかな。

☆国際教育研究家の岡部憲治さんの授業からは、リヒャルト・シュトラウスのヒーロー。京北学園の校長川合先生の授業からは、ジョン・レノンのイマジン。開成の橋本先生の授業からは、グレン・グールドのバッハの演奏。麻布の校長氷上先生(授業は直接みていないけれど、語り口調や文章を手がかりに)からは、ベートベンのシンフォニー7番のイメージを喚起します。これらはまったくの独断と偏見ですが^^);

08 ☆さて、松田先生の授業についてですが、なぜターニングポイントかということでしたね。日能研編集の「2008年首都圏入試白書」によると、今春の首都圏の中学受験の受験率(受験者÷小学校卒業生)は、20.6%です。なんて感慨深いのでしょう。98年、99年は、それまで右肩上がりで、93年から受験率13%を超えてきていたのに、13%を切る時代を迎えてしまったんですね。

☆そのとき私学の先生方が、いろいろなところで宿泊までして勉強会をして、もう一度13%を超えようと知恵を絞り、多様な自己表現を開始したんです。岡部さんとこのThe授業リンクの事務局をやっているNTS教育研究所の石井さん、今はリクルートのキャリアガイダンス編集で活躍している江森さんといっしょに、セミナーをかなりの回数企画し開催しました。

☆私たちのセミナーや勉強会は、大学の先生や企業人に基調講演を頼むものではなく、私学の先生方に基調講演を頼むものでした。ですから、ビジョンや戦略的な話だけではなく、最前線で役立つ戦術論の話にもなりました。そういうセミナーや勉強会を通して、出会った先生方ともっと本質的な私学の魂を表現しなければという共通意識が芽生えてきました。それがThe授業リンクの前身のCALだったのですね。

☆当時受験率13%にこだわったのは、この地点に到達すると口コミが爆発的に広がる可能性が高いと言われていたからなのです。せっかく13%に到達したのに、それが右肩下がりになりはじめた。放っておくと私学のマーケットが冷え込むという危機感を先生方は持っていたのですね。

☆だから、従来のように宣伝のためのパンフレットを作り、それを読んでいるような学校説明会だけではチェンジできないだろうということになったのです。チェンジはまず方法論や学校同士のネットワーク作りからはじまりました。自分の学校だけでがんばっても、そもそも市場そのものが冷え込んだのではどうしようもない。マーケットの質と量を拡大しようと。

☆そこで合同説明会が花開き、ちょうどホームページという新しいメディアも現れたので、表現のイノベーションも各校がどんどん行っていきました。しかし、量の追求は、学校の場合は限界があります。内発的な成長路線に切り替えるにはどうするか、それが問題だということになりました。

☆それには本質の表現以外にあり得ない。私学の本質を表現する最高のリソースは何か。授業以外にあり得ないではないかというのがCALの出発点でだったのです。当時は誤解も多く、授業を販売促進の材料にするのかという意見も多々ありました。

☆そうではなく質の表現の重要性だったのです。当時の学校選択の指標は、大学進学実績と偏差値という量によるものだったんですね。マスコミもその指標を前面にだしていました。これでは、明治以来、官僚近代に対峙し続けてきたもう一つの近代の理想郷であった私学の精神が、崩れてしまうという危機感が本音の部分であったのです。

☆私学の先生方の努力と国の教育行政の失敗があいまって、受験率はすぐに13%を超えました。同時にマスコミも、まだまだとはいえ、学校選択の指標を量から質にシフトしてきました。「授業」で学校を選ぶという視点で取材をし続ける教育ジャーナリスト鈴木隆祐さんの登場はその象徴です。

☆そして受験率20%を超えました。CALもThe授業リンクとしてステージをチェンジしました。なぜか。20%:80%の論理展開ができるようになったからです(東京都の私学に限れば、2001年以降20%を超えています)。これはやっと私学の教育力が世の中に大きな影響を与えるターニングポイントを迎えたことを意味します。

☆明治以降の日本の教育は、官僚近代教育です。そこで細々と私学は本質的近代の追究を継承してきました。しかし、やっとその流れが大きくなったことを意味します。しかし、そのときに、私学が大学進学実績をアップするための授業をやっているというイメージをもしもマスコミによって表現されたり、私学自ら意図に反してそのような表現をしてしまったら、その影響力を本質的近代の追究に活用できず、振り返れば官僚近代教育を後押ししていたなんてことになりかねません。

☆私学が公立学校よりよいということを言いたいのではないのです。官僚近代教育の閉塞と抑圧に苦しむ子供たちの環境を変えるためのトリガーが、歴史的社会構成上、私学なんだと言いたいだけなのです。しかし、私学が一致団結して、リフォメーションを起こすことは考えられません。あくまで教育ですから、見識と知恵と教養で世界を変えるしかないのです。

☆見識と知恵と教養は授業で生まれます。それぞれの私学が、そして公立が、教育の最前線で、大学受験のための知識や学習指導要領で配列された断片的知識を獲得するための授業を廃し、本質的授業を展開すれば、おのずから世界が変わる20%:80%の論理が展開するときがやってきたのです。

☆松田先生は授業を通して、私学公立問わず共鳴共振の響を伝えているのです。ブルックナーの7番の響にのせて。松田先生は、あのダニエル・ゴールマンも推奨する“RESONANT LEADERSHIP”の持ち主なのですね。<いま・ここで>の世界のターニングポイントは、軍事力や経済力によるものではないのです。知の響を共振し合うことで変わるのです。

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学び野[31]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか③

☆松田先生の授業について、今回は少し違う側面から考えてみたいと思います。限られた授業の中にジグゾー法という対話型(今回のプログラムにはディスカッションまではなかったですが、それも当然活用されます)のプログラムを入れると、通常の講義型の授業にはないロールプレイをする目が必要になります。

☆それは、松田先生がスーパーバイザーだとすると、ほかにアドバイザーが必要になります。各チームで対話が生まれているわけですが、同じレベル、同じ速度、同じ質疑の内容が行われているわけではありません。

☆スーパーバイザーだけでは、チームの状態の違いを把握しにくいので、アドバイザーがチーム活動の時間管理をしたり、様子をスーパーバイザーに連絡するシステムが必要になります。

☆そして、もう一つのアドバイザーが大きなポイントですが、それは授業の参加メンバーには見えない隠れた存在です。松田先生の授業は限られた時間で変幻自在に展開しますから、一冊のテキストを渡して、それで授業すること自体、展開を停滞させます。事前に準備万端整えたプリント類がものをいうわけです。しかし、それは膨大にあるし、使う予定のものが使われなかったり、使う予定にはいってなかったものを使うことになったりするのです。

☆このプロデューサーのロールプレイをするアドバイザーがいなければ、一般にはこのような授業はうまく実行できません。このバックヤードの存在こそ、20%:80%の論理なのです。要するに20%は「出来るヤツ」です。80%はそのマネジメントに従って、与えられた役割をこなせばよいわけですが、20%の「出来るヤツ」は、あらゆる事態を想定し、臨機応変に対応できる戦略的リーダーでなければなりません。

☆松田先生が、ご自分の学校で授業をやるときは、おそらくこの3者のロールプレイを、自分1人でやってのけるのでしょう。だから、他の先生が真似しにくいわけです。また、松田先生も精魂尽きるまで授業にかかわるということになります。

☆公立学校で、本物の総合学習ができにくかったのは、教師1人の能力によるということもあるのですが、体制の問題も大きかったのですね。フィンランドでこのような授業ができるのは、やはり少人数授業ができるということにポイントがあるのかもしれません。

☆ともあれ、今回はそのプロデューサー的ロールプレーをなんなく遂行できた、つまり松田先生と阿吽の呼吸で動けた「出来るヤツ」が、開催校中村中学校にいらしたのですね。それはS先生なんです。劇場にたとえて言うと、中村中の授業やイベント、今回のような催しものは、舞台です。その舞台で俳優たちが見事に演じきれるには、音響やライト、メイク、衣装、小道具、集客、広報などなどトータルプロデュースが「出来るヤツ」が必要です。この「出来るヤツ」こそS先生です。中村中がパワフルなのは、S先生のような教員がたくさんいるということでもありますね。

関連記事)→The 授業リンク -松田先生の授業④-(岡部憲治さんのサイト)

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学び野[30]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか②

☆岡部憲治さんのサイトでも「The 授業リンク 開催 -松田先生の授業- ①」が書きこまれ始めました。岡部さんはご自分の留学経験から松田先生の授業はアメリカのESLの授業に似ていると指摘しています。

☆手法が似ているということも語っているのでしょうが、大事なことはコミュニケーションの前提ということです。

☆松田先生もプログラムの中で、「チームに分かれてそれぞれ話し合うといっても、今日は先生方だからわりとスムーズに語れるわけですが、生徒の場合は、話さない子もでてきます。この生徒がやらされていると思わないようにするのがプログラムの妙技ですね」というようなことを語りましたが、岡部さんはそこに共鳴してブログに書きこんでいるのだと思います。

*松田先生の今回のテーマが「居場所づくり授業への試み -リード・ランからドッグ・ランへの試み- 」と設定されているのには、こういう背景があったのでしょう。

☆コミュニケーションの前提は話したいという欲求があることです。この欲求を生みだす仕掛けをESLの授業ではあの手この手を尽してプログラム化されている。その点が松田先生の授業と共通しているのだということでしょう。

☆自分の関心領域を相手に語ってみるという最初のプログラムもその仕掛けですね。生徒は与えられた課題については操作性を感じた場合、思考はなぜか停まるものです。自分の関心領域については内側からこみあげてくるのですね。

☆しかしそれでもお互い話さなくても以心伝心という状況の場合、口数は少なくなると岡部さんは指摘するわけです。たしかにESLの授業に参加するメンバーは国も文化も違う場合が多いですから、表現しなければ互いを理解することはできないわけです。

☆一期一会です。お互いを理解しようという欲求こそコミュニケーションの大前提ですね。ところが日本ではお互いのことはわかっていると共同幻想があり、それゆえその大前提がないというわけでしょう。そしてなおかつ日本は世界に比べれば相対的に平和です。問題意識は身近なリアルな空間では生まれにくい。

☆隠れたリスクをあえて掘り起こすプログラムが松田先生の授業ということになります。しかもその問題は、保守主義と偏向主義によって、深い地層に埋め込められています。そりゃあ、生徒たちが社会問題に対し無気力になるのも当然というか必然です。今の生徒や若者がたまたま無気力で、互いに傷つけあうことを避ける傾向になっているのではないのです。彼らの生活時間の大半を占める授業の影響力は意外とすごい。そういう話題はあまりでてきませんね。授業は学力低下を回復する装置という側面ばかりがとりあげられていますから・・・。

☆つまり、通常の座学の教科授業の本当の問題点は、生徒たちの問題意識が大学入試にしかないようなプログラムになりがちだということです。いや時事問題をやりますといわれるかもしれません。しかしそれは実際に解決するまでの問題意識を問いません。事実の確認と評論をやって終わりです。なぜ今授業なのか、The授業リンクなのか。学力低下を回復するための授業なんかが目的ではないのですよ。

☆ともあれ当面の目の前の問題は大学入試です。地層深く埋め込まれたリスクについてのセンサーはどんどん鈍感になります。それでは困るのだというのが松田先生の授業だし、岡部さんの指摘するESLのプログラムでしょう。

☆時代を変えるリーダーは、この隠れたリスクに対するセンサーとマネジメントの力が強いのですが、もしかしたら今の日本の授業は、リスクを隠して自分の利益だけを調整するリーダーを育成してしまっているかもしれません。実存的リーダーか損得勘定に長けたリーダーか、松田先生は生徒とともにいつもそこを考えているのです。

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学び野[29]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか①

☆前回の「学び野[28]究極の授業の勉強会 第1回The授業リンク開催」で明大明治の松田孝志先生の授業の重要性について気づいたことを語りましたが、うまく書けませんでした。それでいつものようにつれづれなるままに書いていきながら、着地点を見出せたならと思います。

☆とにかく松田先生の授業は、現代の日本の隠れモダニズムであるポストモダ二ズム・マーケットを変えるヒントがあるという直感を抱いているわけで、そのへんをウダウダ考えてみましょう。

☆ハーバード大学の教授ダニエル・ゴールマンは、EQ(心の知性)で世に知られている脳科学と行動科学をベースにした心理学者です。ゴールマンはジグゾー法を、他者を、彼らというモノから私たちという関係にシフトする手法の一つであると最近の著書「SQ(社会的知性)」で語っています。

☆松田先生の授業の手法の一つに、やはりこのジグゾー法を発展させたメソッドが開発されています。この手法はともすれば知識伝達の有効性や新しい発想に気づく方法として有効などという狭い評価になりがちなのですが、生徒一人ひとりの違いを見える化する方法だということが、ゴールマンのスコープをあてれば見えてきます。

☆さてなにゆえに生徒一人ひとりの違いを見える化することが必要なのでしょう。プレゼンテーションをする自己のアイデンティティの確立のため・・・などというキッズ・マーケットやキャリア・マーケット的発想ではありません。

☆しかし教育のマーケットの問題点は、あきらかに「キャラ立ちブランド形成」の必要性を販売促進しています。簡単に言えば「レッテル貼り」こそブランドだなんて言っているわけで、何か違うんじゃないか、けれども、そういう商売が着実に私立学校に忍び寄っている。松田先生の授業はそういう隠れモダニズム的ポストモダニズム(東浩紀さんたちのポストモダンとは似て非なるものです)の侵食を防ぐ授業になっている。そういう点でまずはターニングポイントなのではと、The授業リンクの勉強会に参加して感じました。

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学び野[28]究極の授業の勉強会 第1回The授業リンク開催

☆昨日(2008年5月19日)、中村中学校で、究極の授業を求めて、教師や教育関係者が50人以上集まりました。講師は明大明治の松田孝志先生です。それにしても私立学校の不易流行を思い知った勉強会でした。

080519 ☆松田先生の授業それ自体が、官僚近代学校の授業とは全く違う、すなわち規律統治型ではなく、やる気や興味、そして知識を想起させる問答型の授業だったという点がまず一つですね。ソクラテスやトマス・アキナスのような問答形式の授業の組み立てなんですね。

☆古代ギリシアにおいてあるいは中世ヨーロッパにおいて、彼らは権力や人間の世俗知や憶測知に対して挑み、多くの人の世界観を変えたのですが、これがおそらく欧米のリベラルアーツのルーツで、松田先生の授業もそこにつながりますね。このことについては、The授業リンクのメンバーどうしで確認し合うチャンスが必要かもしれません。

080519_2 ☆松田先生の授業は決して独断と偏見ではないのです。ある意味小泉八雲のような位置づけでしょうか。夏目漱石の東大の授業は、もともと小泉八雲がやっていたんです。漱石は小説はおもしろいのですが、授業は講義型で、理屈っぽく、一方的で、当時はつまらないという評判だったようです。それに比べ八雲の授業は対話型でおもしろかったと。上田敏は八雲が東大を去ることになって、非常に落胆したほどであったそうですよ。

☆大江健三郎さんは小泉凡さんに「世の中はやっと八雲のものの見方や価値観に追い付いてきたと思います。八雲の研究はこれからです」とエールを送ったということらしいのですが、まさに松田先生の授業に、世の中が追い付いてきたのではないでしょうか。

☆それからたいへんわかりやすい形で不易流行を実感したのは、共立女子の渡辺教頭先生が、実は中村中学校の小林理事長・校長先生とは同窓でかつ同じ専門だったという話や、私は松田先生の教え子で、今ある私学の社会科の教員をやっていますとか、私はこの会の会員のS先生の教え子ですよというような話を一遍にお聞きしたことです。

080519_3 ☆松田先生の授業の批評・分析は、この勉強会に参加していた国際教育研究家の岡部憲治さんがいずれ自らのブログで発表するということなので、私は気づいたことを1つ述べておきましょう。

☆世の中がやっと追い付いてきたのですが、松田先生はまた大きな一歩先に進んでいるのに驚いたのです。その大きな一歩とは、授業の展開やそのノウハウのことではないのです。それは生徒一人ひとりの分析をきっちりしているということです。

☆これは生徒の評価のことではないんですね。1人ひとりの生徒の価値観や認識方法、感じ方を分析できているということです。

☆なになにそんなの当たり前ではないかと反論する方もいるでしょうね。しかし、1人ひとり違ってよいのだから、その違いは気にしないというのが、実は学校現場です。習熟度クラス分けは、1人ひとりの違いに注目しているわけではなく、あくまでグルーピングです。偏差値なんてと言っていながら、わける発想や理屈は同じことです。

☆結局スコアの背後にある1人ひとりの違いを分析できていないのです。そんなことはない1人ひとりの特徴を私はこんなに詳細に了解していると反論されるでしょうが、その了解したことを見える化しているかというとそうではないのですね。それでは分析したことにはならないのです。了解と分析の紙一重の差異。しかしこれが大きな一歩の差異になるのです。ところがしかし、この松田先生の分析手法をただ真似をしてもだめなのです。それは今度は了解にかなわないんですね。

☆松田先生の分析は問答法が前提なんですね。ダイアローグあっての分析ですから、それは統合でもあるんです。地と図の反転の繰り返しがあって分析は生きるのです。松田先生の授業が終わったあとに質問が幾つかでていましたが、噛み合わなかったかもしれません。ものの見事にカント的な質問とソクラテス―ヘーゲル的な応答のすれ違い。

☆The授業リンクの前身のCAL時代の会員は、≪私学の系譜≫のメンバーだけだったのが、新しい授業の勉強会は、より広く会員が集まっています。価値観の多様性がこの勉強会で浮き彫りになったわけです。改めて貴重な機会だと感銘を受けました。

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学び野[27]究極の授業の勉強会始ります。

☆2008年5月19日(月)、中村中学校で、究極の授業の勉強会「The 授業 リンク」の第一回の集まりがあります。参加申込みは締め切られ、参加者は60名弱と聞き及んでいます。私立の先生も公立の先生も参加するようです。またマスコミ関係者、ジャーナリストも多数参加の予定だということです。2001年から私学の先生方が行ってきた勉強会CALの発展形です。一方、世の中は、やっと脱ゆとり路線で変わろうとしています。あるいは全国学力テストの結果分析で、教育における何かを変えようという動きが今というより今ごろ始まっています。

☆そして、何を変えたらよいのかというと、結局言葉力やコミュニケーションであり、その総合的な活用の場である授業であるということのようですね。そういう意味では現行の学習指導要領の開始時点で、私学の先生方は、すでに、本質的な授業の在り方を確立し、世に問わなければという危機感と使命感を持っていたことになります。

☆今回CALからThe授業リンクにシフトするのは、現行学習指導要領の総合学習がたんなる体験学習で、見識、知の塊、人間形成といった本質的な部分を忘却する可能性があるという危機意識が、新学習指導要領では和らぐどころか、さらに深刻になるという反動的な教育行政の在り方にますます危うさを感じたからでしょう。

☆いずれThe授業リンクのサイトが立ち上げると思いますから、詳しくはそちらをご覧いただければよいのですが、この会の発起人である、京北学園の川合校長、共立女子の渡辺教頭、中村中の小林理事長・校長の立ち上げアピール文を紹介しましょう。

〔The授業リンク〕の発足に寄せて ~もっと授業を~

【いまこそ授業の充実を】

 《The授業リンク》という研究会が発足します。それは、学校で子どもたちを生き生きさせ、学習の効果をあげるのは「授業力」であるという視点からの発信です。その前身の「21世紀型学習研究会CAL(Center for the Advanced Learning)」は2001年から活動を続けてきました。「子どもたち1人ひとりの才能、創造力を引き出し伸ばしていく仕掛けや仕組みは、学習プログラムにある」という発想で、首都圏の私立の中学校、高等学校の教師仲間たちとそれぞれの「授業」を軸に研究を続けてきました。

【国際社会の中での日本の子どもたちの学力】

 しかし、21世紀の日本の教育はその後、決して良い方向に推移してきたとは言えません。2007年12月4日、日本記者クラブでのOECD事務総長アンヘル・グリア氏のスピーチは、我々が危惧していた教育への不安を明確に指摘していて衝撃的でした。日本の教育で子どもたちは、
  ※ 初めて出会う状況で、知識を応用する必要がある場合、困難に直面する。
  ※ 彼らは将来の労働市場に出たときに必要とされるスキルを身につけていない。
  ※ 文章情報を取得し、処理し、統合し、評価することが、最大の課題。
  ※.科学が自分の人生に機会を与えてくれると考えておらず、自分の将来という観点     から科学を学ぼうとする動機づけが弱い。
  ※ 多くの日本の若者が環境問題について平均よりも高い楽観意識を報告している。
  ※ 科学関連の活動への女子の参加率は特に低い。この点は教育政策上の重大な懸念事項。
であると言うのです。わざわざこんな辛辣なことを言いに日本まで来たのかと驚いてしまいましたが、これはEU社会から日本への温かいメッセージであると受けとめたいと思います。

【教育関係者の使命】

  我々教育に携わる者は、日本の未来を担う子どもたちのために躊躇しているわけにはいかなくなりました。子どもたちを活かす教育を真剣に考え、模索していかなければなりません。その思いに賛同した仲間たちと、この会を発足することになりました。その理念は、
  授業で人間関係・社会関係をつなぐ感性と知性を養い、授業から世界の痛みを感じ、  解決するアイディアが生まれる。この、授業に挑戦する理念共同体(「利益共同体」  と対義。思い・願いに賛同する者が集う意)が“The授業リンク”。教科授業にはとらわれない。
と今現在では考えています。勿論、研修がつづく中でさらに参加者と共により高い理念へと発展させていけることを願っています。

【授業が変われば、日本が変わる】

  具体的には、1人ひとりの生徒が人間や社会と関係を結べる感性と知性を自己陶冶できる居場所づくりをするために、丁寧なコミュニケーションに基づくThe授業に挑戦していく。体験・探求・議論・発表・編集を創意工夫して組み立てることによって、1人ひとりのモチベーション・好奇心が生まれる授業および考える時間・表現する時間を大切にする授業の仕掛けについて、それぞれ違う学校に属しながら情報交換し、必要な時にはコラボレーションして新しい授業のプログラムを作っていきたいと思っています。
 教育に携わる多くの人が、この理念に賛同され参加されることを願っています。

☆第一回目の講師は、明治大学附属明治中学校の松田孝志先生です。タイトルは「居場所づくり授業への挑戦 ―リード・ウォーキングからドッグ・ランへの試みー」です。松田先生からのメッセージもご紹介します。

 
「君が一番手だよ!虎の穴へようこそ!」
[The授業リンク]の最初の研究会発表者に指名されて、武者震いしています。それは、この場を企画した方々の志が高いこと、教育現場の現実に翻弄されながらも将来の日本を見据えて理想の旗を振り続けていることを知っているからです。子どもたちを「育てる」ことにこだわり、自分たちの腕・感覚を磨くだけでなく、後に続く人たちに“ぶつかり稽古”の場を提供して下さっているのです。“人生意気に感ず”私は、諸先輩から受け継いだものに自分の持ち味を加え,それを多くの方々と共有・分かち合いをしたいと思っています。講義形式の授業にアクティブな授業を組み合わせることで、子どもたちが「学ぶことの快感」「自分には持ち味がある」「Only oneの自分であると同時にOne of themの自分である」を実感し,そして「その過程で多くのスキルを身につけてもらいたいのです。今回の<「居場所づくり授業への挑戦」―リード・ウォーキング授業からドッグ・ラン授業へ―>は、関わりの中で知識に習得・事象に理解の次のステップへ誘うジグゾー法によるグループワークを体験していただき、それを活用する試みに挑戦したものです。「とりあえずやってみる!」という気持ちです。さぁ,“ぶつかり稽古”をしましょう!

*松田先生の最近の著書

「心を揺さぶる授業~居場所づくりを支援する」

大阪府の指導主事も自らモデル授業を行っているそうです。The授業リンクの先生方の活動が本質的な授業の広がりに影響を与えるのではとワクワクしています。授業が変われば、世界が変わります。これが本来の教育改革の在り方ですね。改革は常に現場という最前線から生まれます。授業のビッグバンの予感がします。

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世界を変える学校[08] 海城学園⑥

世界を変える学校[07] 海城学園⑤ 】のつづきです。

☆中田先生の序の最後の部分を見てみましょう。

振り返れば、私が大学院を終えて本校に赴任し、最初に担任した学年が、この「卒業論文集」の栄えある創刊号を纏め上げました。彼らが高校を卒業してこの春でちょうど十年目になります。大学や大学院の修士課程を終えて社会に出て行った者に続いて、この一、二年は大学院の博士課程を修了した者たちの就職の報告が届くようになりました。大学や官庁の研究職に就くというもの、博物館の学芸員になるというもの等々、職種は様々ですが、彼らが一様に口にするのは、「自分の学問・人間形成において、中3で卒業論文を書き上げた経験は掛け替えのないものでした」という一言です。
 最後に、今回先輩たちに続いて立派に卒業論文を書き上げた学年の生徒諸君が、この学びを通して手にしたゆるぎない自己信頼を土台にして、更なる飛躍を成し遂げ、頼もしい先輩たちの後に続くことを心より祈念して、ささやかなはしがきに代えたいと思います。

☆ここの部分には、海城学園の「卒業論文」の編集活動が、いかに世界を変えているのかについてさりげなく書かれています。

☆この活動は、研究職、学芸員、企業人などそれぞれの道を歩むことになったきっかけのひとつとして影響力があることが述べられています。それぞれの道を歩むという確信をもつことは、それぞれの生徒が、1人ひとり自分の世界観を持つということを意味します。世界を変えるというのは、まずは漠然としてあるいは不安をもって歩んでいた自分の中で、あっという気づきとそれによって急に膨らむ自分なりの世界観が立ち上がることです。

☆その世界観を互いに支え合う友人、先輩と後輩、そして生涯見守ってくれる教師の存在が肝要であるということも示唆されていますね。自己信頼とは、自分の世界観を自分で立ちあがらせることと、その過程を支え合う他者との出会いの確信から生まれてくるのでしょう。

☆そしてそのそれぞれの世界観は、今度は自分の外部にある世界そのものに影響を与えるのでしょう。家庭や地域や学校や社会や国や国際社会の政治経済・生活・文化に影響を与えるのです。もちろんその影響には、海城の倫理である公正としての正義が横たわっています。

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世界を変える学校[07] 海城学園⑤

世界を変える学校[06] 海城学園④ 】のつづきです。

☆海城学園の先見性について、中田先生はこう語っています。

社会科の総合的学習が開始されてはや十六年が経とうとしています。文部科学省が総合的学習の導入を決めるよりもはるか以前に、それに踏み切った本校の社会科教員を中心とした先生方が将来を見据えて選択した指針が、決して的外れでなかったことが今ようやく世間でも認知されるようになってきたということでしょうか。

☆まったくその通りですね。昨日の午後知人に頼まれて、小学校低学年の保護者対象のセミナーに参加しました。「9歳の壁をなぜ乗り越える必要があるのか」というのがテーマでした。9歳の壁を乗り越えずに「きっちり」勉強だけしていくとどんなキャリアデザインの可能性が待っているのか。逆に乗り越えずに「のびのび」暮らしていくと、大人になってからどうなっていくのかという仮説を話しました。

☆なんだか危機感駆動型の話になってしまって、少し反省しないわけではないのですが、妙にリアルな雰囲気がセミナールームに広がってしまったので、ついついそこのケースの話で盛り上がってしまいました。

☆で、どうやって9歳の壁を乗り越えるのか、そもそも9歳の壁とは何かという話になりました。9歳の壁を乗り越えられなくても、東大の入試問題はできてしまうのだし、日本の社会だけで暮らすのならなんとかやっていけてしまうという話もしましたか。

☆保護者の中には、将来お子さんを海外につれていくという方や、私立小学校に進学させたという方がいたためでしょうか、そのような問題意識について妙に共感雰囲気が浸透してしまいましたね。

☆ともあれ、OECD/PISAの問題、ウツ病の問題、不登校やニートの問題、クリエイティブ・クラス到来の話題などなど話は広がりました。

☆そして、9歳の壁を超える思考力を考える問題の例として、岡部憲治さんの「世界標準の読解力」で紹介されている海城学園の問題をいっしょに考えてみました。都市工学の専門家もいましたので、ますます盛り上がってしまいました。

☆地図という非連続テキスト(文字ではなく図や表で描かれたテキスト)から、都市計画を批判的に検討し、自分の都市デザインを創造的に思考するには9歳の壁を乗り越えていなければできないし、こういう問題を考えることが9歳の壁を超えることにもなるのだというアハ体験の空気は感動的でしたね。

☆海城学園の入試問題では、茂木健一郎さんのいうアハ体験ができる問題が多く出題されますが、それを制作編集しているのは、海城学園の先生方以外にいないのは、言うまでもないでしょう。

☆中田先生自身は国語の教師です。しかし、社会科の先生方の教育活動の本質を、このように見抜き、評価し、応援しています。知のインタフェースが成立しているのですね。この本当の意味での知の横断的な思考の創発が、海城学園の先見性の面目躍如ですね。

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学び野[26]白梅清修の戸塚先生の媒介性(了)

学び野[25]白梅清修の戸塚先生の媒介性②のつづきです。今年の清修の算数の入試問題で気になる点があったので、戸塚先生にたずねてみました。

本間)戸塚先生は、「清修としては、条件反射的に答えを出す力よりも、問題文に書いてある情報を丁寧に読み込み,それを式で表現したらどうなのか?・・・こういった、大切な情報を結びつけ、自身の考えを述べる思考力と表現力を見るようにしています」とおっしゃいましたが、その一つの例として、今年の入試で、数学の領域の計算問題を出題されたと理解してよろしいのでしょうか。

戸塚先生)今年度の大問2の問題のことを言っているのですね。その通りです。今年は、第1回の入試では、「累乗の計算」問題、第2回めでは、「三角比の計算」問題、第3回めでは、「行列の計算」問題を出題しました。

本間)いずれも計算法則を例示していますから、受験生は数学の問題だとは思わず、規則性あるいは通常とは違う計算ルールを読み解く問題だと思って解いたでしょうから、逆に思考力や論理力が見えたということでしょうか。

戸塚先生)そうです。「累乗の計算」では、計算法則を例示し、それに従って規則を理解し正しい結果を得られるかがわかります。「三角比」では、サインとコサインの定義を図解し、これを応用してsin(90-θ)=cosθ、cos(90-θ)=sinθの作り方を示し、その上で正しい結果を例を元に得られるかがわかります。情報を丁寧に読み解く力があるかということです。「行列」でも、計算法則を例示し、それに従って規則を理解し正しい結果を得られるかがわかります。

本間)まさに情報力、思考力、論理力の連関がポイントになるわけですね。しかし、例示があるから難しくはない。算数から数学の移行が、入試問題からスタートしているのも先生のアイデアならではですね。

戸塚先生)単に入学者を選抜するためだけの試験ではなく、受験生の段階から「へ~、なるほど」と思えるような知的体験を提起する機会をつくりたいと思っています。それから、教科どうしの連動だけではなく、教科内の連動の例でもあります。通常これらの学習範囲は高校1年~高校2年の間が主なのですが、これらは高校生でないと分からない代物ではないのです。基本的な計算能力と文章読解能力さえあれば解決出来る問題。大事なのはこの数学的知性と言語的知性の連動こそが、学年の壁を超える状況をつくるということなのです。清修の数学の授業の中では、中1でも必要に応じて大学入試問題も紹介しています。

本間)「この問題は高校で解くとか、大学入試だから中学では解けない」という先入観を常に崩す体験の機会をつくっているということですね。

戸塚先生)そうです。問題が解ければよいという発想ではなく、大事なことは考えることです。いつどんな問題に直面するのか人生なんてわからない。そのとき、私はまだ解き方を学んでいないから解決できませんでは、困ります。清修中学校に入学してから卒業までの6年間の中で、問題の解き方だけではなく、数学的思考力そのものを使えるようになってもらいたいと思っています。

本間)数学的知性とか数学的思考力とはどんなイメージをもてばよいのでしょうか?

戸塚先生)全ては独立した点ではなく、連結している線であり、隣接している面であり、結合している空間であるという発想、その第一歩が清修の入試です。

☆このように、戸塚先生と話をしていると、白梅学園清修の教育の通奏低音が身体中に響いてきて感動せざるを得ません。連動的とか横断的とか連関とか関係性とかいう言葉は、数学的知性あるいは発想がベースにあると、イメージしやすいということを改めて了解しました。

☆清修の一期生は、いよいよ中3。高校数学を学ぶ時期を迎えます。算数から中学数学へのシフトは終わり、中学数学から高校数学への新たな挑戦。しかし、そのシフトの準備はすでに中学入試のときから包含されていたとは、驚くべきことではないでしょうか。

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学び野[25]白梅清修の戸塚先生の媒介性②

学び野[24]白梅清修の戸塚先生の媒介性 ①のつづきです。白梅学園清修の天才数学教師戸塚先生からは、「生徒の皆さんが世界標準以上の学力を身につけられる授業やテストとはいかにして可能なのかというテーマ」のお話をいつも拝聴しています。戸塚先生は、教科連動型の発想やコラボ型授業のプログラム作りの重要性を常々論じられています。

Photo ☆教科連動型の発想やコラボ授業が、生徒の清修体験を豊かな経験値に変換する媒介項だということなのですが、この媒介性とは具体的にはどういうことなのでしょうか。発想にしても授業にしてもポイントは連動、コラボですから、一見異質なものでもつなげてしまう、置き換えてしまう環境が、生徒の体験を思い出で終わらせるのではなく、使える知識や技術を形作り、その形=型が新たな発想を生み出すという経験値を高めていくことになるということなのです。

☆しかし、その「一見異質なものでもつなげてしまう、置き換えてしまう環境」とはまたいかにして可能なのでしょうか。このことを考える上で、戸塚先生が算数の入試問題の作り方について語られた中にヒントがあります。一部をご紹介しましょう。

本間)白梅学園清修の算数の入試問題を学ぶことは、一般的な算数の受験勉強するのとどんな点が違うのですか?

戸塚先生)中学入試の算数というのはある種特殊技能と感じられるものがあります。確かに、限られた短い時間で、正解を導くための手法が求められるときもあるでしょう。

本間)塾などで教えると言われている、「テクニック」というものですね。

戸塚先生)そうですね。本当のところは意外と本質的な思考を「テクニック」と言っているだけのこともあり、感心させられるときもありますが。それはともかく、清修としては、条件反射的に答えを出す力よりも、問題文に書いてある情報を丁寧に読み込み,それを式で表現したらどうなのか?グラフや図で表現したらどうなるのか?こういった、大切な情報を結びつけ、自身の考えを述べる思考力と表現力を見るようにしています。

本間)大切な情報を結びつけるというのはポイントですね。どうも算数とか数学となるとデータという言葉は思い浮かぶのですが、情報という言葉は思い浮かばないのですが、戸塚先生にそのように説明されると、わかるような気がします。

戸塚先生)ここ最近、清修の先生方と日本語の表現と、数式での表現のことが時々話題になります。やはり場合の数や確率の内容になりがちですが、「2つとも赤でない」「3人が隣同士」など、これらの日常的表現を数学の世界でどう扱っているのかなど、そして英語で表現したら?など・・・要するに、言語と論理の関連性を感じている次第です。

本間)読解リテラシーと数学的リテラシーの結びつきの話ですね。

戸塚先生)OECD/PISAのような世界標準の学力なんかもそういうことは意識しているのでしょうね。しかし、実際には積極的には、まだなされていないでしょう。それはどちらかというと問題解決リテラシーという別カテゴリーで対処されているような気がします。清修は、総合学習とか、問題解決とかいう別の教科をつくるのではなく、教科どうし、そして教科の中でやっていきたいと構想している次第です。

本間)教科どうしのつながりはイメージつきますが、教科の中でというのがちょっと?

戸塚先生)本間さんでも、わかりにくいですか?ますます大事なことであるという証拠ですね(微笑)。たとえば、算数と数学は、数学という教科の中でつながるようにするのです。

本間)あっ!なるほど。たしかに算数から数学へスムーズに移行するのは意外と厄介だと聞きますね。

戸塚先生)そうなのですね。しかし、その問題は、実は算数とか数学の問題ではないのです。様々な問題に取り組む際、例えば「この答えを求めるためには、○○が分かればよい。○○を得るには□□を求める。それには問題文のこの条件を、このように活用していけば良いはずだ!」といった、論理的思考力の育成の問題なのですね。

本間)それで、算数の入試問題などで、まったく目新しい、他では見ない問題が出題されることもあるわけですね。その方が塾で学んできた算数の解き方を直接使えるわけではないので、論理的に考えるという道しか残されていないということですね。すごいなぁ。神奈川の栄光学園の先生方と同じような発想ですね。

戸塚先生)まっ、似て非なるものだと思いますが(微笑)。とにかく、人間が生きていく中で、答えが始めから分かっていることはむしろ少ないのではないでしょうか?そのような場面に直面したときにも、より良い選択をするためには、どのように考え、行動すれば良いのかを卒業後も考えて行動出来るように配慮し、教育活動にも従事するのがミッションだと思っています。数学的思考は未知のものや未来のことを予想したり、シミュレートするには最適なわけで、それは算数でも同じことです。算数から数学へスムーズに移行するのは技術論の問題ではなく背景論の問題ですよ。

☆戸塚先生をはじめ白梅学園清修の先生方は、皆時間密度が高い仕事をされています。この時間制約をいかにして超えられるのかが、逆に創意工夫の思索を生み出しているともいえるのですが、おそらくその仕事は生徒一人ひとりとの対話が中心ですから、やはりここにこそ「言語と論理の関連性」を考えるヒントがあるのでしょう。まずは生徒と教師のコラボプロジェクトこそ清修のベースだということでしょう。

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学び野[24]白梅清修の戸塚先生の媒介性 ①

☆昨年ぐらいから、私立学校の先生方の話の内容が大きく変わってきたなと感じる今日この頃です。差別化の時代から差異化の時代にシフトしつつあると実感しています。八雲学園の先生方と話していても、ほかの学校とこんな違うことをやっているんですという話にはならないですね。むしろ入試問題と文集や学内で発信されているものにこそ学校の真実が表現されているという話になります。

☆卒業式のときの答辞の内容も大きく変化していると。生徒たちは八雲学園で自分がいかに楽しく過ごせたかという視点から、八雲学園で過ごせたことがこれからの人生や社会にどういう影響力が持てるのかという視点になってきているという話で盛り上がったりするのです。

☆中村学園や京北学園、聖学院の先生方と話していても同じようなことを感じます。もともと共立女子の渡辺先生と海城学園の中田先生、開成の生田先生、明大明治の松田先生、女子聖学院の小倉先生とは、もっぱらそういう話しかしなかったのですが、最近はそういう話をどこの学校の先生方からもお聞きするようになりました。

☆学校経営の話にしても、同じですね。広報も差別化戦略から差異化戦略にシフトしています。広報が差別化戦略のうちは、入試問題の信頼性・妥当性・正当性の話などはあまり話題にならないし、授業のプロセス論には全くならないですね。ところが差異化戦略になると、教育の顔としての入試問題の働き・存在理由・評価測定方法論などの話で沸きます。授業の方法論や素材論、世界標準のレベルの話で侃々諤々になるわけです。

☆経営と教育の関係総体の話になるのが、差異化戦略です。差別化戦略は競争優位性をベースにしますから、偏差値だとか大学進学実績にしがみつかねば競争を勝ち抜けないのですが、差異化戦略は競争しているようで競争にならないのですね。入試問題も授業も文集も、お互いに似て非なるものをやっているわけですから。質の競争は実は競争ではなく共創になっているわけです。ゆるやかな理念共同体という市場を構築するけれど、その市場内での競争はないのですね。他の市場との競争はあるのだけれど、私学市場内での競争はなくなるのです。

☆ただし、相変わらず差別化戦略をベースにしているところも多いので、完全なゆるやかな理念共同体としての理想型にはならないですね。そういう意味では差別化戦略vs差異化戦略の競争はあり続けるでしょう。ただ後者が若干強くなりかけているかもしれません。

☆この差異化戦略の最先端にいる私学の先生方の1人に、白梅学園清修の天才数学教師戸塚先生がいるのです。今回は枕が長すぎました。戸塚先生から聞いたお話は次回のお楽しみということで、いったん筆を置きます。いやいやブログを投稿します。

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学び野[23]八雲学園の近藤理事長の媒介性

毎日新聞(3月12日19時57分配信)によると、

来月22日に行われる全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)で私立学校の参加率が前年度比約8ポイント減の53.09%に低下することが、文部科学省の調査で分かった。私立小の参加率は前年度比約12ポイント減の50.0%、私立中が同7ポイント減の54.15%で、全児童・生徒対象とする全国学力テストの意義が問われそうだ。

☆この件について、東京私立中学高等学校協会の近藤彰郎会長先生(八雲学園理事長・校長)は、同紙でこう語っています。

「昨年テスト結果の公表が当初予定よりも大幅にずれ込み、子どもたちに(結果の)フィードバックができないと考えた私立が多いのでは」と。

八雲学園をはじめ、多くの私立中高一貫校は、独自の学びのプログラムを開発しています。プログラムやシラバスの重要な要素は、生徒1人ひとりの学び方の改善や考え方の広がりを促進することなどを目的とした評価の方法です。

☆生徒が自立/自律した学習者になるには、自らを常に振り返られる環境設定が重要なのですね。この評価システムの中でも最も重要なのは、テスト結果だけではなく、それをきっかけに生徒と教師が対話することです。さらに重要なことは、DOとCHECKの間の時間ができるだけ短いことです。

☆実際には近藤先生は、記者にこのような総合的な評価の重要性について語ったと思いますが、記事になるとさらりとした表現になっています。

☆それはともかく、このように近藤先生は、自分の学校だけではなく、私学全体の学びのシステムについて発信し続けています。私学の学びが、いかに体験<経験値の媒介項であるかということを証明し続けています。もちろん、ご自分の経営する八雲学園の質の高い教育を実践しつつ、私学全体の行方のことを構想しているのは、言うまでもありません。

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学び野[22]中村学園理事長授業の媒介性

Photo ☆中村学園理事長小林和夫先生は、毎年本を発刊しています。今年も「世界を知ろう―身近な窓をあけて」(銀の鈴社2008年3月3日)を編集されています。

☆小林先生の講演や学内報に書かれたものを中心に、先生方の書かれたものも編集することによって、中村学園の教育の基本的な考え方、つまり教育戦略が伝わるようになっています。

☆それにしても、ついにやったなあ。理事長がプロジェクト学習という授業を廊下で実行してしまったのですから。部屋を出て外に出ようよとは寺山修司が言いそうですが、小林先生は教育空間は教室だけではないよというわけです。

☆すごいなぁ。ある意味教室というのは教科学習ですよ。廊下はその各教室を横断的につなぐわけですね。教室と廊下という空間の構造がそのまま学習のプロセスのメタファーになっているんですから。

☆しかもこの空間には、学年も交差し教師も交差するネットワーク型のコミュニケーションがあふれているんですね。ネットワーク型は物理的にはまだまだマトリックスですけど、心理的にはもうそんなものを超えています。フェリックス・ガタリだったらリゾームというのでしょうね。

☆ともかく、進路指導室前の廊下に全校掲示板があるのですが、そこを「知の溜まり場」にしようと脳裏にひらめいたところから、このプランが始まったようです。

ここに切り抜いた新聞記事を張り出して、生徒にその感想を聞いたり、意見を求めたりしてにわか青空教室を作れないだろうか。知の溜まり場になれば、わたしと生徒の位置関係は、上下のタテ関係ではなく、左右のヨコ関係が生まれるだろう。命令・指導という上下の一方通行ではなく、助言・示唆という横からの力が双方向に働かないだろうか。わたしの「授業第一」がこういう形でできればいいと思った。

☆小林先生の授業の準備もまたすさまじいものがあります。

紙面の文字数は朝刊だと新書2冊分。夕刊だと0.3冊分あるそうだから、毎日、新書本を2.3冊。1ヵ月で70冊読破するのに等しい勢いが必要だ。この場合、記事を鋏で切り抜くことを考えると、持久力もさることながら瞬発力を研ぎすますしかなかった。

☆さて、知の溜まり場の効果は絶大だったようです。生徒たちの好奇心、知のお祭り騒ぎ、議論、対話は広まったのです。何より新聞記事という身近な窓から世界を広く遠く眺めることができたのです。

☆詳しくは本書を手に入れて読んでみてください。その際、実際に中村学園に訪れて、知の溜まり場だけではなく、知のギャラリーや今の自分と未来の自分を考える空間もご覧になるとよいですね。

☆中村学園の教育空間は、やさしく包まれる空間や楽しく対話する空間、アーティスティックな雰囲気に浸れる空間、静かに思考できる空間、そして知のお祭り騒ぎができる空間があります。そしてこの空間の出来事が、すべて脳内プロセスのメタファーになっているのです。考えるとは、感じるということは、共感するということは、空間と戯れることで学んでいくのです。

☆小林理事長は、そのプロセスを見える化したのです。プロセスが明快になれば、生徒たちの変化や滞留も見えます。どうしたらよいのかは対話やメンターシップでOK。だから小林先生の授業は、中村体験<生きる経験値に変化させる絶大な媒介項なのです。

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学び野[21]共立の表現教育の媒介性

☆この時期になると共立女子の渡辺教頭先生からいただく作品集があります。「ともだち」という同校の中学の文集プログラムの成果です。読むたびに共立女子の表現教育のベースが問答スタイルであることがわかります。

☆同校の教育の基礎は自問自答と対話の統合です。最初は豊かな体験から直観的に受け入れた知識。それが自問自答と他者との対話の中で、現実と一致し、知識の広がりが生まれます。あるいは深まります。自問自答によって知識を表現する言葉を拓いていきます。そのプロセスの1つの成果が「ともだち」です。やがて、豊かになった知識は、新たな現実を逆に創りだすことにすらなるでしょう。

29 ☆文集の表紙は、美術の時間に描かれた想定自画像です。体験の中のリアルな自分でも、体験を通して成長してしまった自分でもなく、その間にあって、どちらの方向へ進むべきか、何をすべきか、自分の壁は何かなど自問自答しているプロセスの間の自画像です。渡辺教頭先生なら、物象化された自分ではなく、関係総体をあれこれつなごうとしている自分とでも言うでしょうか。ともあれ、言葉の知性と美学的空間が交差するプログラムが共立女子では創意工夫されているのです。

☆笹山久さんの「四万十川―あつよしの夏」の読書感想文を中学1年生が書いていますが、まさにこの美学的空間と言葉の知性が内的連関を働かせていることがわかる作品です。幼いころにあつよしは大蛇を見た→いつしかあつよしは大蛇が自分の内にいることに気づきはじめる→父親との対話との中で「何もせんがじゃ、何も変わらんし」という言葉にはっとする。→大蛇は遠くにしか見えず、自信が前面にでてくるという流れを書いています。

☆そしてその中1の生徒は、自分の中にいる大蛇と重ねます。あつよしと自分のそれぞれのレイアーのシフトと同期をとる多重構造の意識の豊かさに驚かされます。

☆平野英雄校長先生は、その巻頭言でこう語ります。

私たちは先人たちの教えをまず知識として学びます。しかし、どんなにそれが豊富でも、社会の中で有用な働きができるとは限りません。状況をくみ取って知識を生かし、的確な判断ができる力が必要です。そして、それに基づいて、例えどんなに困難な状況であっても正しい方向に向かわせる実行力があれば、社会はよくなっていくものです。この各段階を、知識、見識、肝識と言うようです。

☆この段階は、体験→媒介項→経験値の段階にも重なります。共立女子の教育は、体験<経験値という変化が生まれる媒介項が設計されているのです。

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学び野[19]中村中のおやじの会の媒介性

☆2008年3月8日、中村中で「おやじの会」が開催されました。プログラムは「おやじ特別授業」と「フライングディスク大会 おやじVS生徒」。特別授業は学校では教えないようなことを子どもたちに伝えたいという父親からの要望で開催。ディスク大会は前回(6月)行ったとき、生徒とおやじチームが引き分けになり、「納得できない!リベンジしたい」という生徒からの要望を受けての開催となりました。テレビ東京から「おやじの会」の取材申し出もあって、にぎやかな会となったようです。

☆「おやじ特別授業」で扱われたテーマは

①くすりのソムリエ「中村バージョン」

②SEって?

③私がやってきたスチュワーデス

④予備自衛隊の話

⑤ひこうき

⑥コンピュータ雑学

⑦TV業界

Photo ☆薬剤師の「師」は自分の判断で行動して良い。SE(システムエンジニアリング)の仕事は新3K「きつい」「きびしい」「かえれない」。スチュワーデスの「あいさつ」の「あ」は明るく、「い」はいつも、「さ」は先に、「つ」は続けるなど現場で仕事をしていないとわからない興味深い話が連発。なるほど学校では教えられない話ですね。そうそうスチュワーデスの話題の中でこんなお話があったようです。「ドラマの様に整備士との出会いはないし、パイロットと結婚するケースもまれですね」と。60名の参加者(生徒と保護者)は笑いも交えながら、食いつくように聞き入っていたとのことです。

☆梅沢教頭先生の判断力というかフットワーク力というか、とにかくすごいところは、テレビ番組がいかにして出来上がるかについては、取材に来た女性のディレクターに依頼してしまうところですね。

☆ディスク大会は、生徒もおやじも「本気」。スポーツという言葉で世代間の交流。梅沢先生はこう微笑みます。

「自然の笑顔は最高ですね。結果はリベンジ成功!生徒は大喜びしていました。なかむらおやじの会は本日のイベントを経験して、新しい一歩を踏み出しました。しかも『学校では教えないような』内容です。おやじの会の一歩は、同時に中村の教育の新たな一歩を踏み出した記念すべき1日だと確信しました。今後も『おやじ授業』は続けます」と。

☆「おやじの会」体験は、生徒や保護者、教師にとって高い経験値を身に付ける興味深い機会、つまり媒介項です。ハーバード大学のハワード・ガードナー教授の学習理論であるMI(マルチプル・インテリジェンス 多重知能)の実践版であると同時に、教授が一番大事にしている信頼づくりのリーダーシップを育成する機会です。

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学び野[18]村治佳織さんの媒介性

☆2008年3月8日、女子聖学院チャペルで、村治佳織さんのギターリサイタルが行われました。村治さんは女子聖学院のOGです。2年に一度この時期に、PTA主催、翠耀会(同窓会)協賛のもと開催されていて、もう5回目だそうです。

☆なぜ村治佳織さんが媒介項なのかというと、村治さんの女子聖学院での体験とヨーロッパ修行の体験が、見事に村治さんの経験値を極限まで高めているからなのは言うまでもありませんが、女子聖学院の生徒、保護者、教師、OG、そしてシェアさせていただく私たちにとっても村治体験は、希望と得難いひと時を経験値に高めることができるからです。

☆村治さんの演奏は、ただすてきな曲を演奏して終わるというものではないのですね。音楽的知性のみならず、学びのプログラムがちゃんとあるのです。プログラムはコンセプトとストーリーと脱空間的知性(想像力といったほうがわかりやすいかもしれません)、そしてスキルの極限性が融合されていて、村治体験<経験値という「体験」を女子聖学院全体に浸透させるのです。この浸透力はPTAを通して、学内全体に広がるし、同窓会を通して歴史を形成します。

☆今回のプログラムのコンセプトはキリスト教のルーツでしょうか。村治さんは演奏とトークという対位法的プログラムの運営を自ら演出されますが、最後の方で、今年はヨーロッパを拠点に活躍するチャンスが多いと語ってました。ゲバントハウスとの共演もあるのでしょうが、やはりスペインが中心なのでしょうか。

☆そしてこんなことをさらりと言ってました。キリスト教に中学時代から触れることができたのがよかったと。ヨーロッパの音楽を理解したり文化を理解したり聴衆とのコミュニケーションを深めたりしていくには、キリスト教の文化を肌身で感じておく体験が重要だったのでしょう。女子聖学院でのキリスト教体験は、村治さんにとっては経験値として高められています。

☆プログラムのストーリーは第一部と第二部の対位法です。第一部では白いドレス、第二部では赤いドレスでギターのタイプも変えてやはり対位法のレトリックのアイデアですね。

☆曲目は第一部はいろいろありますがバッハのシャコンヌを中心とする欧米のキリスト教の思い出ですね。白はどちらかというと洗練をイメージする色彩でしょうか。シャコンヌはもともとバイオリンの名曲。弓を使わないギターで演奏するとまた趣が違うんですが、もともとシャコンヌは舞曲ですから、実はギターに合うんですね。

☆第二部は赤の色彩。スペインの情熱と哀愁の旋律でチャペルはいっぱいになりました。不思議ですね。スペインはカトリックなのに、女子聖学院はプロテスタント。ここにも対位法があります。村治さんが女子聖学院でキリスト教に触れられてよかったというのは、こういうヨーロッパの伝統的音楽と精神性に触れられたからでしょう。女子聖学院のキリスト教はキリスト教の中でも革新的で先進的なのですが、それは新技術を生むという意味でではなくキリスト教の原点に回帰せよという意味で革新的なのです。

☆だから今回の村治さんのコンセプトはキリスト教のルーツなのです。そしてそれはスペインなんですね。スペインのカトリックは、村治さん同様世界をさまよいます。中世においてキリスト教改革と異端の改宗に挑んだドミニコ会。ルネサンスの反宗教改革の旗手イエズス会。この両修道会を生んだのはスペイン。テーマは原点回帰です。

☆第二部はそれでよいのですが、第一部はどのようにそのコンセプトが反映しているのでしょう。それはシャコンヌですね。大航海時代に生まれた舞曲です。スペインからヨーロッパに広まったと言われています。ここで結びつくでしょう。

☆ヴィヴァルディとA.ヨークのサンバーストは?太陽の都の象徴です。太陽の都と言えば、カンパネラ。彼はドミニコ会士ですね。ロンドンデリーは?アイルランドの民謡です。アイルランドはカトリックですね。でも不思議とプロテスタントの礼拝でよく歌われます。

☆村治さんは自分の演奏に乗ってスペインの旅を頭の中でしてくださいねと聴衆に語りかけていましたが、この発想はデュシャンやジョン・ケージの発想です。古き伝統をコンテンポラリーアートの手法でプログラムを編集しているのですね。世界を変える試みです。

☆村治さんにとって、女子聖学院は媒介項だったのでしょう。しかし、今では女子聖学院にとって、村治さんはなくてはならない媒介項です。そして、言うまでもなく、体験<経験値のその高まりは、村治さん自身は世界一流のスキルとタレント、品格(これは小倉校長先生が村治さんを紹介するときに使っていたキーワードです)を身につけているということであり、女子聖学院の生徒さんをはじめ、皆さんにとっては、村治さんの影響です。多くの人が体験前と後では、精神の変化を感じていることでしょう。

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学び野[17]ポスト2.0モダンの媒介性②

☆ニューヨークから戻った知人に話を聞きました。彼は学生ですが、ニューヨークのコンテンポラリーアーティストたちとコミュニケーションしています。彼らはドイツやイタリア、もちろん日本でも活躍しています。でも拠点はNYです。

☆コンテンポラリーアートでビジネスが成り立つ拠点がNYやロンドンだからですね。アーティストといっても、多種多様。1人孤独に自己沈潜しながら活動している人もいれば、知人たちのようにハイブリッドで活動しているチームもあります。

☆知人によると、コンテンポラリーアーティストたちは、日本のようにポストモダンだあ!一色の思想界はおもしろいよねということらしいのです。村上隆さんのようにスーパーフラットだというコンセプトは、たしかにポストモダンに近いけれど、日本のように全体の雰囲気がスーパーフラットだあ!ということにはならないのがアメリカで、基本的にはめちゃくちゃ保守的だというのです。

☆だけど色々な人がいて、互いに尊重し合う寛容性がある。だからこそ、一方ではめちゃくちゃ頑固な安全保障システムがあって、ここは自由の国アメリカだろうかなんてめまいがするときもあると話しているそうです。

☆私はNYは5年前に訪れて以来行っていませんが、その時に比べ、ずいぶんネット環境が変わったということです。超高層ビルがくっつくように林立しているマンハッタンですから、ケーブルを各部屋に張り巡らすのではなく、どうやら無線ランをがんがん飛ばしているみたいです。セキュリティの厳しいはずのアメリカなのですが、一方でカフェでもパークでも、無線を拾ってインターネットにつながる箇所が結構多いそうです。もちろん無料だということです。

☆ネットの世界は、疑似ポストモダンです。ですからNYもポストモダンだらけに見えるのだそうですが、彼らは日本と比べてやはりモダニズムが貫徹していると感じるのだそうです。そして、日本って、やっぱり良いところだとなるそうです。疑似ポストモダンもいっぱい溢れているけれど、ポスト2.0モダンもすでに溢れているということなのでしょう。もちろん官僚モダニズムには辟易してしまうようですが、少なくともポスト2.0モダンはすでにあると感じるのだそうです。そうそう水が豊だというのがこれからのアートには欠かせないところでもあるようです。

☆ただし、そんなポスト2.0モダンでは生業にならないので、日本において、コンテンポラリーアートではなかなかビジネスにつながらない。ポスト2.0モダンはまだ雰囲気でマーケットにはなっていないということでしょうか。もしかしたらならないのかもしれません。何せ日本国内だけで通用するものはマーケットにはならない。それなのに存在するところが、日本の良さだというのではないでしょうか。

☆ビジネスはやはりデカルト空間でないと今のところはダメだということでしょう。スピノザ空間では競争がないですからね。知人がグッゲンハイムの新しい企画の展示会のオープニングやパーティーにアーティストたちと参加して感じたことは、たしかにフランク・ロイド・ライトの設計はおもしろいけれど、まだモダニズム。でもイサム・ノグチといっしょで、その建築や彫刻と他者がコミュニケーションするときにポスト2.0モダンが一瞬生まれるようです。でも生業の部分は、フランク・ロイド・ライトの設計したあくまでも物象化された建築物の使用料。それをベースにしたコンサルタント料などなどです。いや大きいのはオークションでしょうか。

☆ポスト2.0モダンはモダンなくして生計が成り立たないし、モダンはポスト2.0モダンなくして持続可能性を保障できないわけです。この共存関係を断ち切る脱構築はいかにして可能なのでしょう。コンテンポラリーアーティストたちの体験<経験値がいかにしてビジネスとして可能になるのでしょうか。そのヒントが≪私学の系譜≫にあればよいのですが・・・。

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学び野[16]大阪府の授業改善の媒介性

産経新聞(3月5日16時19分配信)によると

全国学力テストの正答率が、実施対象の小6、中3でいずれも大阪府が全国45番目となったことを受け、府教委は専門家による成績低迷の原因分析と改善策を盛り込んだ「学校改善のためのガイドライン」をまとめた。応用問題の成績不振の背景を、テストと同時に行われたアンケートの全国値との比較をもとに「授業のあり方に課題がある」と指摘、教員の説明中心の授業を「一方通行」と批判し改善を求めている。今週末にも公立小中学校、市町村教委へ配布する。

☆今さら何をと思うし、まさかこの専門家集団に何千万も調査依頼費などを無駄に使ったのではあるまいなと一瞬よぎりますが、それはさておき、一方通行授業では、体験>経験値になります。議論や発表、できればリサーチも入れてもらい、創造的思考を活性化する授業をすべての学校が行えば、世界標準の学力は完璧ですね。体験<経験値にもなります。

☆ともあれ、専門家集団は

「国語の授業で自分の考えを書くことが少ない」と答えた中学生が48・2%(全国平均35・4%)、「算数で学習したことを生活の中で活用しようと考えない」という小学生が44・6%(同37・7%)に達しているデータに着目し、「活用力がはぐくまれていないのではないか。授業のあり方に課題がある」と結論づけた。

☆なぜこういう権威者の結論を待っているのだろう。橋下知事を非難するより、知事のような人材に(性格は好き嫌いがあるでしょうが)みんなでなろうよとすれば、すぐに動くのに。

☆それとも何か。橋下知事の「35人学級の見直し」に対し、こういう手間暇かかる授業では35人学級が妥当だという作戦なのでしょうか。まさか・・・。

☆しかし、それにしても、開いた口がふさがらない。

改善の方法については「解決への過程を重視する」(算数・数学)、「教員の説明ばかりの一方通行の授業から、自分の力で作品に向かう授業へ」(中学国語)などと提案。国語の場合では、各学年で教える言葉の整理表を小中共同で作成、系統的に語彙を増やすといったプランを紹介し、一貫した方針に基づいた指導を求めた。

☆これ整理表をカルタ(マインド・マップ)に置き換えれば、上記の部分はフィンランド・メソッドです。あくまで新聞の記事で、専門家集団の提出した実際の報告書はこんなものではないことを祈りましょう。

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学び野[15]ポスト2.0モダンの媒介性①

2008年1月22日(火)、東工大の大岡山キャンパス・講堂 で、気鋭の若手ポストモダニスト5人が、国家を語るトークイベントが行われましたその5人とは、

東浩紀(批評家、東京工業大学世界文明センター特任教授)
北田暁大(東京大学大学院情報学環 准教授)
萱野稔人(津田塾大学国際関係学科准教授)
白井聡(日本学術振興会特別研究員、多摩美術大学・神奈川大学非常勤講師)
中島岳志 (北海道大学公共政策大学院・准教授)

☆いずれも1970年代生まれの方々です。バブルとバブルの崩壊、ベルリンの壁の崩壊、ウィンドウズのPCの席捲、ITバブルの崩壊、サリン事件、ポスト京都会議、9.11などさまざまな地殻変動期に生まれ育った学者ですね。

☆この地殻変動をどのようにとらえるか、思想としてのポストモダンは終わったのか。社会生活、特にモバイルを象徴とする新しいメディアにはポストモダニズムは根付いているのか。根付くとしたらどんな新しいコミュニケーションが生まれているのかなどについて、真摯に考えている方々です。

☆私も行きたかったのですが、残念ながら他のミーティングがあっていけませんでした。しかし、本当に概略ですが、3月1日の日経新聞の文化欄にそのときの様子が載っていました。多くのポストモダニズトは、フーコ解説、デリダ解説、ドゥルーズ解説で終わります。

☆そんな中でこの5人、特に東さんは、彼らの思想を踏まえた上で、批判的に吟味しながら、全く独自の切り口で、ポストモダンを読み解こうとしていますね。というか彼だけがポスト2.0モダンを読み解こうとしています。従来のポスト・モダンは疑似ポスト・モダンで、結局モダニズムの最前線に位置するだけで、パラダイムが変わっているわけではないのです。

☆教育改革だ、経済改革だ、金融改革だ、何だかんだと改革が叫ばれてきたし、叫ばれていますが、基本はモダニズムです。官僚モダニズムから資本主義的モダニズムに移行しているので、だいぶ変わっているように見えますが、政府や官僚の思考形態がポストモダニズムになっているわけではないのです。

☆しかしながら、アキバ文化にみられるように、草の根や生活、特に中高生の生活には、ポスト2.0モダニズムが生まれて浸透しつつある。このことについて、いち早く気づいたのは宮台真司さんでしょう。そしてその流れをくみながら、宮台さんとは違うメディア論を展開しているのが、東さんですね。モダニズムから疑似ポストモダニズムへ、官僚モダニズムから資本主義的モダニズムへ、という流れはコミュニケーションがツリー構造コード群からネットワーク型コード群にシフトしたのだけれど、このネットワークは所詮マトリクスに過ぎず(セミラティスでも良いんですけれど)、疑似リゾーム組織なんですね。

☆ここに気付いている社会学者も多いのだけれど、じゃあリゾーム組織ってどうよってなると、東さんしか探究・分析をしていないんですね。おそらく世界的にも東さんだけでは。

☆基本的には欧米もBRICsもモダニズムで行けるんですね。徹底的にオープンな資本主義にしていく。そうすることで市民的モダニズムが顕在化してくる。それでよいのです。その状態をポストモダンとフーコやデリダは呼んだのかもしれない。

☆でもガタリはポストモダンではなかったんですね。もっとスピノザ的だし、東さん的です。日経新聞では、フェリックス・ガタリについては言及されていませんでした。おそらく、実際には語られていたと思いますが。

☆いずれにしても疑似ポストモダンでさえもまだまだです。特に教育の世界はパラダイム転換は止まっています。ところが私立中高一貫校の中には、すでにはじめからニュー・モダンという≪私学の系譜≫に属している学校がありますね。

☆どんなに学習指導要領が変わろうとも、文科省や教育委員会の思考様式が官僚もしくは資本主義的モダニズムだと、体験>経験値という結果に終わります。フィンランドはその点市民的モダニズムですね。ポストモダ二ズムでは決してありません。中心から出発するツリー構造の思考様式を最大限に育てている国ですから。

☆そうそう疑似ポストモダニズムだって体験>経験値です。ここが疑似たるゆえんだし、ポストモダンって何だろう?現代思想は終わったのかという閉塞状況は、まさにそれを証明しています。

☆でも市民的モダニズムは体験<経験値です。ところでポスト2.0モダニズムはというと、体験≠経験値です。体験と経験値の断絶ですね。東さんの著書「動物化するポストモダン」や「ゲーム的リアリズムの誕生」はそんなことを示唆しているように私には思えてならないのです。

☆≪私学の系譜≫に属する学校は、その点体験から異次元の経験値へとワープするクリエイティブな何かを持っていると思ってます。新しい体験を逆照射する知性を育成するのではないでしょうか。

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学び野[14]女子聖の教育空間の媒介性③

女子聖学院の教育空間について、最後に、仙田満さんの「4つの空間要素」の視点で見てましょう。

1)学びの場

2)学びの時間

3)学びの仲間

4)学びの方法

4 ☆この4つの要素が明確に埋め込まれている空間は、普通教室です。学びの場として、講義形式の学びも、分割授業も、議論や討論形式の学びも、変幻自在にできるのが教室です。また学園生活の多くの時間を占める学びの時間を過ごすのも教室です。学びの仲間がいる場も教室です。教師も生徒も自分なりの学びの方法を開発し、実践する場も教室です。それゆえ思い出の空間にもなるのです。

Photo_9 ☆あらゆる空間に「4つの空間要素」が埋め込まれているのですが、教室のように端的にその要素が表れている空間が、女子聖学院にはもう一箇所あります。それはチャペルです。旧チャペルは円の空間です。新チャペルの空間は四角形の空間です。そしてシンボルには十字とひし形。円は愛を、四角は秩序を、ひし形というか三角なのですが、これは意志を、そして十字は信仰を象徴しているかのようです。フランク・ロイド・ライトの長男が設計したガラスの教会にはその象徴が随所にありますね。代数構造、順序構造のみならず位相構造の感覚や直観が養われるのが女子聖学院の教育空間の特徴です。

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学び野[13]女子聖の教育空間の媒介性②

女子聖学院の教育空間について、仙田満さんの「6つの原空間」の視点で見てましょう。

1)自然スペース

2)オープンスペース

3)道スペース

4)アジトスペース

5)道具スペース

6)アナーキースペース

☆といっても、「自然スペース」については、グランドと庭園がまだこれからなので、写真をお見せすることができないのですが、実は女子聖学院の位置が中里の丘の上にあるというのが、何よりの「自然スペース」です。丘を上り下りする静かな運動が、実はただ平坦なところを歩くより、運動感覚機能を働かせるのです。道の上下が、歩くスピードや視角に変化を与えますからね。

Photo_7 ☆また、実はデザインが直線と曲線のバランスでできていますから、そこから受ける感覚も変化に富んでいるはずです。直線と曲線の空間では響きも違います。それに白木の明るい空間と新チャペルの付近の落ち着いたダークブラウンの空間とでは光のコントラストが明確に違います。視覚に変化を与えるのも実は「自然スペース」の仕掛けです。グランドや庭園はあまりにわかりやすい「自然スペース」ですが、それはどちらかというと物象化されたスペースです。気づきにくいところに、五感をゆさぶるしかけがあるのが本来的な「自然スペース」なのかもしれません。

Photo ☆「オープンスペース」はいたるところにあります。しかし、そのスペースに対話できるインテリアが配置されています。これは廊下でも、購買部でもそうなんですね。この廊下は、「道スペース」でもありますが、グランドと庭園ができれば、校舎内外を結ぶ「道のスペース」は回遊性があって、めまいが起こりそうです。このわくわく感は人生の道とも重なります。

Photo_3 ☆「アジトスペース」とは表現が少し変わっていますが、居心地の良い友人や先生たちとの居場所です。ときどき口論にもなる空間です。葛藤の思い出、秘密を共有する信頼が生まれる空間です。

Photo_4 ☆「道具スペース」は教育空間には山ほどあります。家庭科教室、美術教室、体育館、図書館、自習室、購買部・・・。

Photo_5 ☆「アナーキースペース」。これも表現が少し違和感あるという方もいるかもしれません。しかし、要は揺らぎの部分、自由な部分ですね。その揺らぎや自由も秩序とバランスがとれるようになるのが社会性です。多目的ホールとかがそうなのですが、Photo_6 女子聖学院の場合はやはり多様な廊下の空間が「アナーキースペース」なのでしょう。一見幾何学的空間で、コスモスが優先しているように感じますが、そこに生徒が集まればどうなるか想像してみてください。イサム・ノグチは空間は子どもが訪れることによって完成すると考えていたと思いますが、アナーキースペースとは、生徒たちが集まることによって空間が変容するのでしょう。

Photo_8

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学び野[12]女子聖の教育空間の媒介性①

女子聖学院の校舎は新しくなりました。グランドとすてきな庭園がまだ未完成なので、全貌について語ることはできませんが、わかる範囲で、仙田満さんの視点で女子聖学院の教育空間の仕掛けを見ていきましょう。

Photo ☆わかりやすいのは、6種類の接合空間です。新しいチャペルと従来のチャペルを結ぶ校舎内の導線は、回遊的で、ぐるぐる回りますが、外の廊下は、ワープします。ショートカットですね。新チャペルという点と旧チャペルの点は非連続ですが、それを結ぶ線は、最短距離と紆余曲折の両方です。非連続の連続性の体感。あとは数学の学びの時間につながるとよいですね。

Photo_2 ☆このショートカットの外の廊下を逆から写してみます。どうですか。まさに穴があいてる感じですね。ポーラスな空間です。外の空間ですから、本来は何もないのですが、このようなデザインが、聖なる空間から聖なる空間へワープするめまいを生み出すはずです。想像力と創造力を生み出すのですね。

Photo_3 ☆いたるところにシンボルがあります。女子聖学院のロゴスと意志のメッセージに包まれている空間です。新しいチャペルにある椅子です。どこにシンボルがあるか見つけられましたか。

Photo_4 ☆新チャペルを出るとそこには廊下があります。チャペルと廊下の接合ゲートにもシンボルが、階段をあがっていくと、そこにもシンボルが。よくみるとポーラスな空間でしょう。ポーラスをくぐる感覚、覗く感覚、好奇心ともう一つ越境感が生まれます。常にシフト、転換というイメージを大切にと空間が語りかけています。なんといっても、ステンドグラスは、越境を光のイメージで伝えます。

Photo_5 Photo_6

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学び野[11] 教育空間の媒介性②

☆遊び=学びの空間によって、子どもたちはどんな能力を開花するのでしょうか。仙田満さんは、

1)身体性

2)感性

3)創造性

4)社会性

☆だと言います。プレゼンするときは、イメージしやすいように座標系にして説明してくれます。ダニエル・ゴールマンだとIQ以外にEQとSQを開花すると言うでしょう。ハワード・ガードナーだと、言語的知性、論理数学的知性、空間的知性、身体運動感覚的知性、音楽的知性、対人関係的知性、内省的知性、自然科学的知性という多重知能(MI)とそれらを内的に連関させる知恵と創造性と信頼性と言うでしょうか。

☆幾つにカテゴリーを分けようと、いずれもIQ以外の知性、つまり脳科学的な成果を踏まえている点は共通しています。

☆さて、上記のような多角的知性を育成する空間の要素とは何でしょう。仙田さんは、4つ挙げます。

1)学びの場

2)学びの時間

3)学びの仲間

4)学びの方法

☆ここで重要なのは、これらが内的連関で結びつかねばならないということです。音楽室、運動場、技術工芸室、普通教室などがばらばらにあってもしかたがないのです。時間もそうですね。一日の時間は有限です。これを無限の時間に変換する空間の仕掛けとは何でしょう。体験<経験値になるにはコラボレーションが最も重要です。どんな空間があればコラボレーションが促進するのでしょうか。空間の中に学びの方法論が埋め込まれているとはどういうことでしょう。集中できる静かな空間があると勉強がはかどりますが、それが空間に埋め込まれた学びの方法論ではないですね。

☆この4つの構成要素を埋め込んだ空間のタイプにはどんなものがあるでしょう。仙田さんは6つの原空間というものを提案しています。

1)自然スペース

2)オープンスペース

3)道スペース

4)アジトスペース

5)道具スペース

6)アナーキースペース

☆「4つの空間要素」と「6つの原空間」を結びつける接合空間も仙田さんは考案しています。

1)回遊性

2)シンボル

3)ショートカット

4)大きな広場

5)ポーラス(穴があいている)

6)ゲームができる

☆「4つの空間要素×6つの原空間×6種類の接合空間」の仕掛けが、ズレや意外性を衝動として生み出し、多角的な知性を豊かな経験値として高めていくのです。

*仙田満さんの考え方を詳しく知りたい方は、

「子どもとあそび 環境建築家の眼」(岩波新書 1992年)

を参照してください。

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学び野[10] 教育空間の媒介性①

☆最近、私立中高一貫校の校舎や施設が、ずいぶん建て替えられています。学校建築は、20世紀型空間としては、監獄と同構造だと言われてきました。一望監視装置として管理が第一だったのですね。

☆たしかに構内を教師が管理するのには機能的だったのですが、外部からの侵入には意外と脆いということが発覚する凄惨な事件も起きました。ですから次に安全という構成要素が加わり、多くの学校で、この点が補強されています。

☆しかし、大事なことは校舎や施設などは教育空間として、つまり学びの空間としてデザインされていなければならないという点が、ようやく21世紀になってから注目され始めました。これは教育心理学の研究の成果かもしれません。カウンセリングという人対人だけの対話では、解決できないことが山ほどあることに直面し、人以外に、生徒が触れる様々な物に応援を頼もうとしたのではないでしょうか。

☆コミュニケーションとは、たしかに人対人の言葉というメディア=媒介項によってなされるのですが、媒介項として、言葉はone of themであるという考え方が浸透してきたのですね。アフォーダンスといって、物や空間や時間が、人に言動を起こさせるという仕組みがわかってきたのです。人は座りたいから椅子に腰かけるというよりも、椅子があるから座るという場合の方が多いのかもしれないというわけです。

☆また認知科学の成果も重要です。知性は何もIQだけではない。EQもあるし、SQもある。いやもっとたくさんある。多重知能=MIという考え方も浸透してきています。

☆そうなると、教育空間はただ箱モノだというわけにはいかなくなるのですね。あらゆるものは多重な意味を、多様なメッセージを持っているということに気付き始めたのです。

☆学びの空間においては、仙田満さんが第一人者です。今は東工大の名誉教授ですが、4月からは放送大学にうつります。子どもの国の設計など数々の子どものための遊び空間をデザインしてきた建築家です。様々な建築関連の学会の会長も歴任している方ですね。

☆ずっとお会いしたかった先生だったのですが、この間やっと念願かなって、お話を伺うことがでました。仙田さんは、あくまで遊びの空間を話されるのですが、私にとっては遊びは学びに通じるので、先生のお話を変換しながら聞くことができました。

☆校舎や施設の中で、生徒たちは多くの体験をします。そして空間の仕掛け=プログラムが媒介して、経験値を高めます。しかもその仕掛けが多重構造になっているので、日々いろいろな発見があるわけですね。そういう建築デザインをしているかどうかは、学園生活をする生徒にとっては大切ですね。教育空間にいるだけで、体験<経験値となるか、体験>経験値となるかは、学校選択の時に見逃せないでしょう。

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学び野[09] フィンランド・メソッドのコミュニケーション力としての媒介性

☆フィンランドの読解リテラシーを育てる方法論、つまりフィンランド・メッソドの最後の構成要素はコミュニケーション力です。コミュニケーション力と言っても、日常会話ではなくて、ディスカッション(議論)のことを意味しているようです。

☆このコミュニケーションはルールにしたがってなされるのですが、北川達夫さんは10のルールを翻訳してくれています。

①他人の発言をさえぎらない
②話すときは、だらだらとしゃべらない
③話すときに、怒ったり泣いたりしない
④分らないことがあったら、すぐに質問する
⑤話を聞くときは、話している人の目を見る
⑥話を聞くときは、ほかのことをしない
⑦最後まで、きちんと話を聞く
⑧議論が台無しになるようなことを言わない
⑨どのような意見であっても間違いと決めつけない
⑩議論が終わったら、議論の内容の話はしない

☆これで、フィンランド・メソッドの5つの能力が巧みに統合されているのがわかります。フィンランド・メソッドは、日本の教育とは違って、本当のゆとりがあるとイメージされがちですが、かなりシステマチックに操作的に子どもたちを社会化しています。

☆この10のルールを、4つのコミュニケーション・カテゴリーに分類して、整理してみると、それがはっきりします。4つというのは、

C) Creative Communication

I) Interactive Communication

T) Tolerant Communication

O) Oppressive Communication

☆コミュニケーションは、創造的雰囲気で盛り上がったり、論理的に互いに話し合ったり、相手の話に耳を傾ける寛容な姿勢をとったり、話し合いの雰囲気を壊さないように抑制したりという対話行為によって成り立ちます。人によって、集団によって、その4つのカテゴリーのどこに力点がおかれるかは異なります。これを「CITOコミュニケーション分析」と呼ぶことにしましょう。

Photo ☆この分析をグラフ化すると、一目瞭然ですね。フィンランド・メソッドによるコミュニケーションは、TとOが高くなるのです。つまり、フィンランド・メッソドは、発想力、論理力、表現力、批判的思考力が十分に発揮できる環境を、コミュニケーションによって形成するという構造になっているのです。

☆CITOすべてのカテゴリーのどの項目もバランスよく鍛えると、逆に発想も、論理も、表現力も、批判的思考力も育成できるという関係総体主義的な発想ではなく、あくまでも要素還元主義的な構造論が、フィンランド・メソッドだったんですね。

☆これはフィンランド市民全体を世界標準レベルに持っていく学習戦略としてわかりやすいし、教師もインストラクションしやすいですね。しかし、これはフェリックス・ガタリのような思考様式には追いつかないでしょう。したがって世界標準を乗り越えることはありません。

☆それでよいのです。世界標準で十分ではないですか。ところが日本の私立中高一貫校は、それで満足しません。フィンランド・メッソドは私学における学びの理論の1つの段階に過ぎません。

☆逆に公立学校には有効ですね。学習指導要領が、世界標準のレベルに到達していませんから。世界標準の知識を学ぶ学年配列は大丈夫ですが、その知識を深めていくレベルが世界標準のレベル以下なのです。

☆多くの私立学校は知識の広がりも、知識を深めていくレベルも世界標準を超えています。

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学び野[08] フィンランド・メソッドの批判的思考力としての媒介性

☆北川達夫さんによると、フィンランド・メソッドにおける批判的思考力は論理力の応用段階だそうです。論理力の応用とはどういうことでしょう。

☆批判的思考力をトレーニングする際も、やはりカルタ(マインド・マップ)を活用します。発想力や論理力のトレーニングの時、中心に言葉やフレーズを置いて関連する言葉や理由のフレーズを増やしていったのですが、批判的思考力の場合、中心におかれるのは、テーマそのものだったり、論文そのものだったりするのです。

☆そしてそのテーマや論文のいいところと悪いところを十個ずつつなげていくのです。あるいは、本当にそうかなという発想をつなげていきます。

☆これは一体論理力のカルタとどう違うのでしょうか。北川さんは例として「遠足とはいかなるものか」というテーマの場合を挙げます。遠足とは楽しいものだと考える生徒がほとんどでしょうが、遠足とは修業のためのものだと考える生徒がでてきたらどうなるかと。

☆当然だと思っていることを覆してみること。これが批判的思考力なのですが、それをカルタでやってしまうんですね。論理力の段階では、概念の精査というより、論理のフレームが大事で、批判的思考力はそのフレームの中にいれる概念の中身そのものに焦点があてられるのです。

☆発想力はフレームなのか概念の吟味なのかは、まだ混沌としているのですね。表現力は混沌とした発想とそれをまとめる論理を統合する。しかし、それによって、発想の芽が摘まれ、一般的な考え方にしぼんでしまう。つまり体験>経験値。そこで、批判的思考力。そうじゃないだろう。で、体験<経験値と大逆転という媒介項なのですね。

☆ここにはヨーロッパのリベラルアーツなベースがあります。論理力の段階のカルタはフレームづくり。これをデカルトやスピノザ、アインシュタインは物質の延長(属性)と言ったんですね。そして批判的思考力の段階のカルタは、概念の脱構築。これを彼らは思考(属性)と呼んだのです。カントだったら、前者を実行力、後者を構想力と呼んだでしょうか。

☆数学の領域ではニコル・ブルバキが、これを構造主義的にとらえたでしょうか。ロラン・バルトだったら、記号論的に延長属性を外延、思考属性を内包と言ったでしょうか。

☆この媒介項の運動をヘーゲルは弁証法と呼んだでしょう。エリクソンはこの媒介項の運動を精神の成長理論としてライフ・サイクルと呼んだでしょう。もちろん、中世や古代の思想にも連綿として遡ることができます。このヨーロッパの伝統に挑んだのがフェリックス・ガタリですね。

☆いずれにしても、フィンランド・メソッドの思想の系譜、実は日本の私立中高一貫校にある私学の系譜につながるのですが、このベース抜きのフィンランド・メソッドの導入は、効果を上げられないでしょう。

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学び野[07] フィンランド・メソッドの表現力としての媒介性

☆このページを書いている最中に、フィンランド・メソッドが授業でも人気がでているという記事が報道されました。良いことですが、体験→媒介項(フィンランド・メソッドの一部)→経験値というサイクルで活用してしまうと、体験>経験値となり、枠組みの狭い、あるいは視野の狭い思考力を育成する恐れがあります。

☆北川達夫さんによれば、フィンランド・メソッドは5つのポイントで成り立っているのですが、そのポイントは相互に関連し合っています。そのことについては、はっきり述べられていませんね。しかし、ヨーロッパの伝統的な教育哲学や芸術、リベラルアーツなどを基礎としてるわけですから、それは統合されているはずです。フェリックス・ガタリのようなカオスモーズな諸関係を構築しているかどうかは、また別ですが・・・。

☆その統合については、もう少しあとで考えることにして、今回はフィンランド・メソッドの3つ目の表現力に関して考えてみます。北川さんによると、フィンランドの表現力のトレーニングは、典型的なものが3つあるということです。

①複数のキーワードをつなげて文を書く。

②フォーマットに従って作文を書く。

③ショート・ストーリーを書く。

☆①の複数のキーワードを使って文を書くというのは、マーケティングの世界でよくある語彙分析に近いですね。これはカルタというマインド・マップの逆の思考です。キーワードを連想ゲームのように発想していくカルタの作業とは違い、キーワードはすでにあるのです。これをつなげて、中心になるテーマを編んでいくわけです。依然として中心という概念が出て来ざるを得ないのはかなり気になりますが。。。

☆②のフォーマットに従って作文を書いたり、ワンパラグラフ・ライティングをしたりするのは論理のトレーニングです。そして③のショート・ストーリーの編集は、再びカルタを使用し、発想を拡散しつつ、論理でまとめていくわけですね。①と②の両方を統合的に行っていくわけですが、もう一つロジックからレトリックに飛ぶことによって、因果関係の連鎖を断ち切ります。ここに感情の躍動感が生まれてきます。

☆こうして3つのフィンランド・メッソドとしての媒介項を活用することによって、体験<経験値となっていくわけです。ここに日本の教育との差異が生まれるわけですね。日本の教育は常に、体験>経験値=体験=知識です。これはちょっとおかしいでしょう。体験がどんどん小さくなっていく。つまり結局体験のない知識だけになってしまうのですね。

☆この点を考えてフィンランド・メソッドを参考せずに、ただ形だけ、というよりフィンランド・メソッドの内的連関を無視して導入すると、とんでもないことになるのです。

☆そうそう中学入試の国語と社会の学びは、当り前のようにフィンランド・メソッドをとっくに使っています。公立の授業で、フィンランド・メソッドが人気ということは、中学入試問題を学び始めたということでもあるんですね。

☆日本の教育システム、といっても政府が作ってきた教育システムの方ではなく、公立小学校側のルサンチマン的というかオリエンタリズム的幻想が造り上げた教育システムが中学受験をタブー化することによって、日本の教育の真のリソースを封印してきたのですね。ちょっと大げさな表現になりました^^)♪。。。

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学び野[06] フィンランド・メソッドの論理力としての媒介性

☆フィンランド・メソッドの論理力も、体験→媒介項→経験値という学びのプロセスの媒介性の特徴をはげしく持っています。

☆北川達夫さんによれば、論理の回路を頭の中につくること、結果よりプロセスを重視する授業がフィンランド・メソッドだそうです。結果よりプロセス。まさに媒介性重視ですね。北川さんの説明する論理の回路とは、

①意見

②なぜなら(理由1)

③それに(理由2)

④また(理由3)

☆ということのようです。フィンランドの小学校では、物語を読むときにも、因果関係を考えるとも説明されています。

☆たしかに論理力やプロセスを重視することは大事だし、媒介性としても大切な役割を果たすと思います。

☆しかし、大事なことは理由とは何か、因果関係って何かということなんですね。理由や因果関係といえば、「~だから」とか「~なので、~である」という表現を思い浮かべるのではないでしょうか。そしてそれ以上でも以下でもない。

☆これでは、思考のプロセスは画一化されるし、体験<経験値ではなく、体験>経験値になってしまいます。北川さんの論理の説明はあくまで典型例であって、フィンランド・メソッドすべての事例を書いているわけではないと思います。

☆フィンランド・メソッドは、ベースに古いヨーロッパの考え方があります。特にソ連とナチとの関係で揺さぶられた歴史があるので、油断すると古いヨーロッパから発出するファシズムの恐怖を知っています。カントやヒューム、スピノザの思考をベースに持っているので、日常生活における因果関係の不確実性を了解しているし、数学的には意見と理由はトートロジーであることも知っています。

☆論理では人間の情感をおさえることはできません。そこにはやはり理性というエチカがポイントになります。つまりこの部分のベースなき論理の媒介性は、体験>経験値をつくりだしてしまいます。

☆企業と学校のコラボによる学習プログラム作りと実践が定着しつつありますが、学校が公立の場合は、この体験>経験値の流れに拍車がかかります。○○工場見学なんてプログラムが危険なのはそういうわけです。学校が私立学校の場合、教育理念にこだわりますから、体験<経験値となることが多いでしょうが、私立学校もパッケージプログラムでいいやあと判断するときがあります。そのとき危険性が忍び込みますね。

☆企業主導のプログラムを導入している学校の未来は絶望です。これは回避したいですね。方法論だけ学びに持ち込むことの危険性。グローバリゼーションの危険性。それを知ったうえで、論理の媒介性を学びに活用する知性が教養です。リベラルアーツが求められているのには、そういうワケがあったのです。

☆かつてHondaさんとHonda「発見・体験学習」プログラムの構想と実行を手がけたとき、Hondaと学校の懸け橋になったスーパーバイザー(SV)とラーニングアドバイザー(LA)のサポートチームのメンバーはICU出身者と慶応SFC出身者が多かったんですね。また、麻布やミッションスクールなど私立中高一貫校出身の学生も多かったわけです。よく議論したものです。このサポートチームそのものが媒介項だったのです。リーダーシップよりフォロワーシップの心意気が心地よく、そういう出会いのチャンスがあったことに感謝しています。

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学び野[05] フィンランド・メソッドの発想法としての媒介性

☆フィンランドの発想法は、カルタだそうです。マインド・マップのことで、フィンランド語で「アヤトゥス・カルタ」というそうです。

☆北川達夫さんによると、

中央にテーマを書き、その周囲にテーマから連想したことを放射状に書き込んでいく―これがマインド・マップです。マインド・マップは人間の脳の機能にそった思考法であり、脳の働きを最も効率よく引き出すことができるのだそうです。

日本の教育でも、子どもの自由な発想を伸ばすことは重視されています。しかし、実際にやらさてみると、これがなかなか難しい。テーマを与えたところで、そこから何も思いつかない。あるいは、あれこれ思いつくのだけれど、短絡的な思いつきばかりなので、テーマからどんどん外れていってしまう。しっかりしたメソッドがないと発想がゼロのままか、「無秩序な発想」になりがちです。

☆実に惜しい。体験をして終わるのではなく、体験で気づいたり、興味を持ったりしたことをマインド・マップという発想法を媒介として経験値に高めておくというところまではよいのですが、テーマを中央に限定するというところが、惜しいですね。

☆基本的にはこれはツリー構造の思考の形で、思考のスタイルは、必ずしもツリー構造でなくてもよいわけです。またテーマからどんどん外れていって新しいテーマがでてきてもよいわけです。

☆はじめ中央に書かれたテーマとは違うテーマがあとから付け加わっても良いわけです。もしカルタが脳の機能にそっているというのであれば、むしろツリー構造ではなく、囲碁型の構造のほうが適しているかもしれません。

☆初めはつなっがていないようにみえても、実はつながっている。非連続の点どうしを結ぶ様々な曲線があるはずです。非連続の連続を見出したとき、あっ!となるのですが、その発見のツールとしてあるいはメディアとしてマインド・マップは有効なんですね。

☆おそらく企業のマインド・マップはツリー型だと思います。学びで活用されるマインド・マップはむしろ位相空間的ですね。企業では人材を評価するとき、最近接領域など見向きもしません。教育ではむしろこの最近接領域のつながりが大事です。ですから、マインド・マップも企業とは違う使い方をしているはずです。

☆フィンランドでこのマインド・マップが本当のところどう使われているかは、北川さんの本からではわかりません。しかしフィンランドの総合制カリキュラムは、かなり横断的でマトリックスですから、単純なツリー構造の発想法が日常化しているわけではないと予想します。

☆いずれどなたか資金力のある方が、フィンランドをもう一度視察して、この点についてリサーチしてくださるといいですね。

☆いずれにしても、中央にテーマを書くところからはじまるマインド・マップばかりでは、発想は硬直化します。逆説的ですが・・・。

P.S.

北川さんの本に、カルタを使って自己紹介をしようというページがあります。中央にテーマである「私」を書いて、そこから私の枝や葉を伸ばしていこうというものです。これとは逆に、かつて、学習院女子の中学入試で、「私」という言葉を使わずに自己紹介しましょうという作文の問題が出題されたことがあります。やはり、カルタは中心からばかりではなく、周辺から書いていくトレーニングをするのもおもしろそうですね。

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学び野[04] フィンランド・メソッドの媒介性

☆<体験―媒介項―[経験値=体験=知識]―媒介項―[経験値=体験=知識]・・・>の連鎖を『結びつける考え方』と呼んでいるわけですが、この媒介項には、様々なものやコト、そして方法論があるわけです。実はここの部分も体験であるわけですが、それはまたいつか考えてみることとして、媒介項としてのフィンランド・メソッドというのを考えてみましょう。

☆北川達夫さんは、フィンランドの文化や教育に造詣が深い方のようです。北川さんは「図解フィンランド・メソッド入門」(経済界2005年)というわかりやすい本を書いています。

☆フィンランドの読解リテラシーは、次の5つのポイントで学ばれるとあります。

①発想力

②論理力

③表現力

④批判的思考力

⑤コミュニケーション力

☆OECD/PISAの最高位のレベル5の習熟度は批判的思考力のレベルですから、就学前からこのようなポイントでトレーニングされていたなら、世界標準のランキングで上位に自然と位置するのもうなづけますね。

☆フィンランドも日本も第二次世界大戦は、ナチと手を組んでいます。そうせざるを得なかった歴史的必然は違うわけですが、戦後この批判的思考力をフィンランドの教育が積極的に導入したのに対し、日本の教育は学習指導要領の項目の中の一つに過ぎず、プログラム化されているかどうかは、学校によって教師によって違うでしょう。

☆戦後の平和や経済政策においても両国の考え方は違うようです。そういう世界史的な視野を考慮した上で、フィンランド・システムを参考にするかどうかについて議論するというのは、日本の教育関係者の中ではないですね。

☆世界ランキングがトップだから学ぼうという教養のなさが日本の教育専門家集団なのでしょうか。学びとは人間の存在野を豊かにするかどうかがまず大切だというのに・・・。

☆それはともかく、次回は発想力がどのように生まれるのか、その仕掛けについて考えてみましょう。

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学び野[03] 空間の媒介性

☆前回「<体験―媒介項―[経験値=体験=知識]―媒介項―[経験値=体験=知識]・・・>の連鎖を『結びつける考え方』」と述べました。子どもたちは、いや私たちおとなもですが、たんに体験しただけでは、ああおもしろかったで終わりかねないのですね。しかし、なんでも体験したものを経験値としてアップしようとすると、それはそれで問題があるのですね。

☆たとえば、私たちは毎日路上で多くの人と出会うわけですが、すれ違うという体験の中ですべての人との交流を経験値としてアップさせていたのでは、そうおいそれと路上を歩くこともできません。つまり、体験をスルーさせてしまうのは人間にとって当たり前のことなのです。

☆むしろ体験を経験値にアップするには、それなりの仕掛けなくしてはできないというのが当然の成り行きなわけです。たとえば中学入試で、受験生が多くの学校を併願し、併願校のほとんどが合格し、最終的に2校のどちらにするか選択判断に迷ったとします。そのとき最終的に決め手になるのは何でしょうか。

☆それは合格体験―進学経験値をつなぐ媒介項としての仕掛け=プログラムの質が決め手になります。合格者は、入試の準備のために説明会など学校を訪れます。そのとき学校は、選択されるための仕掛けを用意しています。つまり生徒獲得プログラムですね。

☆受験生にとっては、学校を知る学びのプロセスに投じられることになります。そのときこの学びのプロセスのおもしろさ・心地よさ・好奇心の喚起性・役立ち感・お得感などなどのインパクトのあったところでの経験値が大きくなるのは当然ですね。

☆さて、この学校獲得プログラムの構成要素ですが、教師の語り・教師との対話などがベースになりますが、それ以外に説明会資料というテキストもあります。そのテキストは文字ベース、つまり連続型テキストばかりではなく図やグラフ、絵などの非連続型テキストも入っています。また体験授業では、身体を動かしたり、音楽で声や耳を刺激したり、クッキングで臭いや味覚を大いにゆさぶったりゆさぶられたりします。

☆しかしこの学校を知る学びのプロセスで重要なものは、これらすべての図としてのプロセスの背景にある地としての空間です。空間の仕掛けが、すべてのプロセスをバックで支援しているのですね。

☆何気ないプロジェクターでのプレゼンも、その設置環境が悪いと、暗くて見にくかったり、眠くなったりして居心地が悪くなります。それはそれで経験値なのですが、選択しない経験値を高めてしまします。

☆テキストも読みにくい読みやすいは、レイアウトやデザインの二次元という空間デザインです。体験授業で、多目的ホールやちょっとしたフリースペースは、基本的に監視システムベースの学校空間の特徴の一つ強制という感覚を開かれた感覚に誘います。またチームで授業体験をするとそこにはアジト空間が広がりますから、親密度が生まれます。授業体験で友達作りができてしまうのですね。

☆麻布学園の文化祭にいくと、部活に参加できます。これが危ない^^)。将棋部などで、先輩と将棋をさすことができるわけですが、そこで先輩に勝ってしまう。ほんとうは負けてくれているわけですが、それはともかく、それで麻布学園の将棋部にいきたいという経験値アップということになるわけです。この話は私のかつての教え子の話ですから、一般化はできませんが。たとえばの話です。

☆体験を経験値にシフトする媒介項のうち空間そして空間は移動しますから時間ですね。学びのプログラムの構成要素というのは実は多様な媒介項のシステムなのです。私がHonda「発見・体験学習」のプログラムをデザインしていたときは、「媒介項」といっても哲学的用語風で受け入れられなかったので、別の言葉で置き換えました。それが「トリガー」という言葉なのですが、すぐに浸透したので、それにしました。学習理論では、グレゴリー・ベイトソンが使う用語ですが。ヴィゴツキーなら「最近接領域」と呼んだのかもしれません。

☆Honda「発見・体験学習」で、やりたかったことで、できなかったことは、時空のアフォーダンスプログラムですね。都市交通では、渋滞や交通事故を回避するためには、移動と空間の媒介項の開発が重要だったのですが・・・。人間の従来の経済活動から時空を都市空間に押し付けるのではなく、空間が語りかける仕掛け、つまり媒介項、つまりトリガーを考案するというのが時空のアフォーダンスプログラムなのですね。もちろん、物理的空間だけではないですね。エンジンという化学的空間が、物理的空間を移動したり、変容したりする人間という脳化学空間に与えるエコロジカルな影響も計算に入れる必要があるのです。つまり排気ガスの問題です。まあ、それはともかく、

①学びの空間

②学びの時間

③学びのテキスト(ツール)

④学びの仲間(年齢・世代・国などのミックス。つまりここでは時間性と空間性がコノテートされている)

⑤①から④を統合する学びの方法(ここでは記号のコノテーションとデノテーションの反転あるいは入れ子状あるいは入れ子状の逆のレイアー構造が生まれる)

☆学びの媒介項の基本カテゴリーは、上記の5つです。学校の場合だと校舎などの設計デザインの時に、学びの空間は計算されています。しかし、家庭や地域、社会では、学びの空間として設計されることは今まではあまりなかったと思います。図書館など点としての学びの空間(物象化されたという意味です)は設計されていても、エコゾフィー的な学びの空間はなかなかありません。

☆仙田満教授は、子どもの学びの環境デザインのリーダーですから、公園や学習施設をたくさん手がけています。イサム・ノグチの公園は、その先がけです。コンテンポラリー・アートは基本的には知性と感性をゆさぶる学びの空間を形成しています。

☆ロンドンやニューヨークという都市空間が新鮮で、何かを問いかけてくるのは、まさにコンテンポラリーアートという学びの挑戦が空間化しているからですね。見ようによっては、東京や京都のような都市空間はコンテンポラリー・アートです。しかし、日本人にとってはすでに日常化してスルーしてしまう空間かもしれません。時空との馴れあいを揺さぶるのが学びのプログラムでもあります。揺さぶらないとあるいは揺さぶられないと体験をスルーしてしまうんですね。

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学び野[02] 日本の教育の媒介項

☆前回は<体験―媒介項―経験値>の話をしました。この媒介項は、論者によって、コミュニケーションだったり、感性のインパクトだったり、ズレだったりいろいろでした。

☆さて、この<体験―媒介項―経験値>は鎖のようにつながるわけですね。一回の体験で人間は生きていくわけではないのです。だから、<体験―媒介項―経験値―体験―媒介項―経験値―体験―媒介項―経験値・・・>とつながっていくわけです。

☆そしてこの連鎖の中の[経験値―体験]の部分が「知識」になるわけです。つまり経験値=体験=知識です。こういう経験値を抱いて新たな体験をするとき、既存の知識を使うわけです。そして次に媒介項によって、経験値がアップするわけです。アップした経験値でまた体験をするわけですから、知識はまた広く深くなっていくのです。

☆この<体験―媒介項―[経験値=体験=知識]―媒介項―[経験値=体験=知識]・・・>の連鎖を「結びつける考え方」と呼んでいます。

☆ところが、日本の教育は、経験値と体験の空洞化した知識を覚える手法なのです。なぜそうなるかというと媒介項が、強制力だからです。とにかく覚えろという抑圧的コミュニケーションなんですね。京北の川合先生の「ていねいなコミュニケーション」とは真逆なんですね。

☆この日本の教育が強制的な学習観であることを、ベネッセコーポレーションが証明しています。詳しくは「教育のヒント」>日本の教育がクリエイティブ資本を拡大できないワケをご覧ください。

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学び野[01] 媒介項って?

☆最近、アスコムの編集者の方々とブレークスルーMTGをしてます。10歳の壁を超える方法論やコンセプトをお母さんに伝えるとしたらというテーマ設定が多いですかね。私立学校の先生方や私の仲間を結びつけて、座談会をしようとか、私学の先生方とコラボ授業しようとか、講演会やろうとか、セミナーやろうとか、新しい企画をたてようとか・・・。思いつくまま。

☆小学生対象、中学生対象、高校生対象、大学生対象は、経験があるけれど、幼稚園生対象のプログラムはまだないので、この年齢層もやってみたいとか。もっともやるのは私ではなく、盟友岡部憲治さんとか仲間たち。わたしはつなげるだけ^^)♪~

☆さて、この間NHKのクローズアップ現代を見ていたら、ある友人から「お~い、今NHK見てるかい。フィンランドの就学前のそれそれ。その授業だよ。いろいろな物用意して、どれが水に浮くか浮かないかやってるだろう。実際にボールに水はって、浮かべてみてるだろう。日本のお受験でやってるのと同じだよ」と。

☆なるほど、日本では富裕層でしかやっていないような授業を、フィンランドでは子どもたちがみな体験できるのですね。しかし、けっこう日常でも体験できることで、それほどすごくないと思う人も多いでしょう。

☆たしかにそうですね。今の子どもたちは体験が足りないというばかばかしい議論しかないのが、日本で、フィンランドは違うんだな。体験の多寡はあまり問題ではないのですよ。アスコムの編集者の方々と、体験は大事だけれど、まさかそれだけで「地アタマ」とか「創造脳」ができるわけではないですよねと議論をいつもしています。

☆京北の川合先生が参入すると、そこにていねいなコミュニケーションが介在しなくちゃねということになるし、共立の渡辺先生がさらに参入すると、そのコミュニケーションが関係性を生むコトでないとねとなります。中村の小林理事長が加わると、知と徳と身のトライアングルの響きがそこになきゃとなるんですね。そしてそして海城の中田先生が入ると、感性をゆさぶるドラマや冒険がなきゃと具体的な授業に発展していきます。そこに岡部さんを連れていけば、マンガやアニメという反教育的メディアをぶつけてズレを生んだ方がよいと。

☆体験はただ通過しているだけではなく、体験自体に耳を傾けたり、身を浸したりして、いろいろ発見したものを結びつける媒介項が必要なんですね。媒介項があれば、体験したものは経験知になるんです。経験知にシフトすると、それは応用がきくんですね。

☆この媒介項の存在は、ヨーロッパの哲学の伝統で、三位一体発想なんです。中村の小林理事長の着想は、これなんですね。中村はカトリック主義?実はそうですよ。ここだけの話です^^)。この媒介項の存在を認めるのは、アメリカではプラグマティズムです。海城中田先生や岡部さんはこの思想に親しんでいますね。共立女子の渡辺先生や京北の川合先生は、むしろこの伝統を超えようとする思想に親しんでいますが、どちらもヨーロッパの伝統を踏まえています。

☆フィンランドの教育哲学はカントやヘーゲルの影響が強いようです。日本の公立学校の教育に足りないものは、この媒介項としての置き換えです。フィンランドの教育では、この媒介項を養う方法論が実践されているのですね。なんて話をアスコムの編集者の方々や白梅学園清修の戸塚先生と議論したりしている今日この頃です。

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