学問・資格

2010年新司法試験結果発表

☆昨日9日、法務省は、2010年新司法試験の最終合格の結果を発表。合格者数ベスト15の法科大学院は次の通り。

東京大法科大学院 201
中央大法科大学院 189
慶應義塾大法科大学院 179
京都大法科大学院 135
早稲田大法科大学院 130
明治大法科大学院 85
大阪大法科大学院 70
一橋大法科大学院 69
北海道大法科大学院 62
東北大法科大学院 58
同志社大法科大学院 55
神戸大法科大学院 49
名古屋大法科大学院 49
立命館大法科大学院 47
九州大法科大学院 46

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学び野[36]言葉のフィクション性

小5授業で自殺方法を紹介「睡眠薬や練炭も」…福岡・篠栗(5月30日12時12分配信 読売新聞)によると、

福岡県篠栗(ささぐり)町の北勢門(きたせと)小(岩崎陽一校長、708人)で、5年の担任男性講師(37)が28日の授業中、児童に対し、自殺する方法を具体的に紹介していたことが分かった。・・・講師は「児童から『こわい話をしてくれないか』などと言われたのがきっかけだった。命は大切で、自殺をせずに力強く生きてほしいと伝えるつもりだったが、力不足で不適切な発言をしてしまった」と反省しているという。

☆言葉のフィクション性の了解が、教師と生徒との間で共有できなかったのだと思います。芥川龍之介や太宰治の人生を語る中で、自殺の問題はでてきます。この話にいきつくまで、時間がかかります。

☆そのうち、言葉のフィクション性に気づく生徒が多くなるはず。しかし、これとてもまだまだ危ないですね。ふだんの国語の授業で、言葉の構造差異を了解できる言葉観をきちんと理解できるプログラムが展開されていなければならいでしょう。

☆言葉の力とは、言葉の意味の記憶でもないし、その意味が使えればそれでよいというわけではないのですね。

☆言葉が放たれると、行動や気持ちや想像も喚起します。だから、言葉の力のマネジメント力を育成することが大事ですね。

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学び野[35]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか(了)

☆第1回The授業リンクの講師松田先生の授業について、つれづれなるままに考えてきましたが、まずはいったんまとめましょう。そして、今度は松田先生と議論して、また考えていきたいと思っています。もっとも、松田先生は、お忙しいですから、いつ議論できるチャンスが訪れるかは神のみぞ知るですが^^)。

☆さて、今まで書いてきたことを箇条書きにして、まずはまとめてみます。なぜ松田先生の授業はターニングポイントに立っているのか?という問いに対する回答ですね。

①日本の公教育が到達していない世界標準の思考レベルを超えている。

②異文化を理解するコモンセンスとしてのコミュニケーションの成立。

③商品化された多元的なキャラに気づき、自分の多面的なキャラと自分のキャラクターの統一に挑む居場所の成立。

④他者の考えや感じ方を知り自由な足場としての居場所づくりの成立。

⑤教育の質の競争を生みだすResonant Leadershipの発揮。

⑥授業の新たな組織づくり。

☆今まで書きたかったことは以上のような理由です。①と②については私よりもむしろ岡部憲治さんの方が、論理的に詳細に分析していますので、そちらをご覧ください。

The 授業リンク -松田先生の授業 - 了

☆①から⑥の項目を満たす授業が、もし多くの先生によって行われるようになったとしたらどうでしょう。想像してみてください。

想像・想像・想像・・・・・・・・・

☆どうです。世界は変わるということが了解できたことと思います。しかしです。この授業はコストがかかるんですね。今のところ松田先生は完全にボランティアでやっているわけです。企業家が見れば、それはありがたいスタッフですが、このスタッフのクオリティをどう維持し、広めていくか考えるでしょう。もし強い信念を持った経営者やオーナーであれば、プライスの決定を高めに設定することは間違いありません。目先の利益しか考えない経営者やオーナーは、事業化はしないでしょう。

☆さて、学校経営においてこれを当てはめるとするとどうなるのでしょうか。このような授業をやらない理由は、本当はただ一つなのです。経営上の問題です。明大明治の授業料は年間52万円前後です。これに補助金が出て、1人当たり80万円から90万円ぐらいの授業料を払っていることになりますかね。あくまで予想に過ぎませんが。慶応普通部は授業料だけで90万円弱です。

☆慶応普通部だって、すべての先生が松田先生のような授業をするわけではありませんが、松田先生の授業の一部分はどの先生も実施します。コラボとプレゼンは当り前だと思います。明大明治はどうでしょう。たぶん全員ではないと思います。その差は結局帰属収入の差なのです。

☆帰属収入の60~70%が人件費だとすると、授業料だけでは人件費は賄えないでしょう。そうすると学内に倹約の圧力が無意識のうちに生まれますね。倹約の圧力は、創造性を萎縮させ、事務的になります。その状況を脱しようなどという動きになると出る杭は打たれるということになるのは必然の流れです。

☆ところが明大明治は、ホームページで松田先生の授業を明大明治の授業として自己表現しているわけですね。これは革命的なことなのです。ターニングポイントの意味は、教育の論理のチェンジだけではなく、経営の論理のチェンジも示唆しているのです。

☆もし松田先生のような授業を、すべての先生が行ったら、授業料をアップするしかないのです。新商品を作って儲けることは法人型NPOである学校法人にはできません。帰属収入で経営していくしかないのです。倹約倹約で先生方にがまんしてもらうか、先生方のクオリティの高い授業にリーズナブルな授業料を投資してもらうかどちらかです。

☆不足知識を埋め合わせするような講義型授業をやり続けているのに、授業料をアップせよは保護者は納得しません。しかし、4:1の割合で、講義型と松田型の授業を実行したなら、年間授業料を60万にするのは保護者は了解するでしょう。

☆2:1の割合でやったのなら、年間授業料80万円にしてもよいでしょう。松田先生の授業が、なぜターニングポイントに位置しているかというと、教育の論理と経営の論理のパラダイムを転換させるからです。

☆このシーズンは、各学校で理事会が目白押しでしょう。理事会には学校長以外に企業のオーナーや学識者も入っていると思います。彼らは授業の中身なんてわからないので、授業で経営ができるなどという発想をほとんど持ち得ていません。これが日本の教育の本当の悲劇であり、隠蔽され続けてきたリスクなのです。

☆彼らが、社会起業の精神や市民経済の精神を理解するにはもう5年かかるでしょう。そのときまで、松田先生のような授業に理想と夢を持ち続けてもらうには、コミュニティが必要です。その一つがThe授業リンクなのだと思います。

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学び野[34]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか⑥

☆松田先生の授業の大きなねらいは、生徒の居場所づくりです。ジグソー法によるプログラムは、互いの脳内の思いや考えていることを音声というテキストに表現し合います。こうなってくると実はここでポイントになるのは生徒の読解リテラシーです。

☆読解リテラシーと居場所づくりがどう関係するのか?それは大ありであり、このことについて気づかないと生徒の居場所づくりは不発に終わるのです。「居場所づくり」とは松田先生以外にもよく使われるキーワードですが、言語構造の差異があり過ぎます。

☆物理的な落ち着く場所という意味でも使うでしょうが、松田先生はそれだけを意味しているのではありません。良好な人間関係作りを意味する場合もあるでしょうが、松田先生はそれだけを意味しているわけではありません。茂木健一郎さんなら脳がいろいろ考えて集中している状態を居場所ができている状態というでしょうか。松田先生はもちろんそれも意味していますが、それだけではありません。

☆何を言っているのかと思われるでしょうが、松田先生の考える「居場所づくり」を了解するには、実は国際教育研究家の岡部憲治さんのPISAの読解リテラシーの考え方が補助線となります。ちょうど岡部さんが松田先生のジグソー法(The読解リテラシーで行った分だけの分析ですが)を読解リテラシーの思考のレベルに合わせて批評しています。詳しくはそちらをご覧ください。

☆ご覧頂いたという前提で、話を進めていきますね。さて、松田先生のジグソー法ですが、岡部さんも分析しているように、レベル6まで考えるプログラムとして成立するのですね。今回はある種デモンストレーションですからプログラムとしてはレベル4の論理的思考までが想定されていますが、チームによってはそれを飛び越えレベル6まで到達しているところもあったでしょう。

☆私の属していたチームは、おそらくレベル6まで到達しましたね(自画自賛 ^^;)。興味のある社会的事件としては、アメリカのサブプライムローン問題の背景に見え隠れするアメリカの世界戦略、ミャンマーのサイクロンとそれに対する政府の人権を無視するような対応、中国四川省の大地震から見える政治経済問題、佐世保以来の少年少女の事件といったものを互いに確認し、問題の共通点と違いの整理や分類を行いました。しかし、最終的には一見結びつかないこれらの問題の背景にディスコミュニケーションや情報の格差、貧富の格差、強者弱者格差などの問題が権力問題につながっているという議論になりました。

☆論理的に話すだけではなく、批判的視点が加わっているし、横断的複眼的な視点は創造的な思考を生み出しています。レベル6に到達しているわけです。

☆それはともかく、この議論の最中に、生徒たちがそれぞれキャラを出しはじめます。まとめ役だとか記録するが役割だとか批判する役割だとか・・・。これははじめは表面的なのですが、だんだんと思考のレベルを促進させる役割なのか、阻害する役割なのか、停滞させる役割なのか、内的なキャラが浮き彫りになってきます。

☆この内的なキャラはさらに、結局倫理観や価値観や感じ方に結びついていきます。つまりキャラクターですね。同じレベル4や5、6でもこのキャラクターによって中身は大きく違ってきます。キャラクターが空集合の場合、キャラは上滑りをし浮遊感と空虚感で充満します。

☆逆もあります。キャラの言動が、キャラクターを生み出していくというケースですね。ここらへんはあまりに多様な動きでとらえにくいのですが、ここをとらえようとして松田先生が対話を仕掛けるのですね。このとき居場所が広がります。キャラとキャラクターが離れたり結びついたりしながら、他の参加者のキャラとキャラクターの相関とさらに結びついたとき、思考のレベルの上昇と人間関係のつながりが広がるのです。その瞬間が「居場所」です。この瞬間の連続性こそが「居場所づくり」なのではないでしょうか。

☆逆に言えば、思考のレベルをここまででよいと限定したり、人間関係を役割分担的に限定したりすると、そこには居場所への抑圧が生まれます。エディプス・コンプレックスというのもその一つの形態ですね。「居場所づくり」はこのような得体の知れない抑圧を見える化し、それに対応する内的な知性の塊そのものです。この対応の仕方にしてもキャラクターは違います。回避したり、迂回したり、粉砕したり、乗り超えたり、握手したり・・・といろいろです。

☆ただし、明大明治のような私学では、教育理念が共有されているので、キャラクターは明大明治のアイデンティティとして、生徒たちは受け入れられるのですね。だからキャラとキャラクターの関係は、もしかしたら教育困難校とか進路多様校と、これまた抑圧的に呼ばれてしまっている学校に通っている生徒よりとらえやすいかもしれません。ジグソー法は、その生徒がとりまく環境まで明らかにしてしまう可能性があります。

☆今回参加したメンバーのほとんどが教師でしたから、ゆるやかな理念共同体としてキャラクターがはじめから共通していた可能性があります。それゆえスーッとプログラムにはいれたのかも知れません。

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学び野[33]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか⑤

☆松田先生の授業の核心になかなかせまれないで、ぐるぐる周縁を歩いているような感じで気づいたことを書いているのですが、今回は少し核心に向かえそうな気がします。

☆松田先生の議論や編集やプレゼンをジグソー法のプログラムで進める手法や徹底的に生徒たちが書いた興味と関心事を整理分類していく手法、そして生徒たちが書いたものすべてにコメントを返していく手法のゴールはなんなのでしょうか。

☆座学や講義形式の授業では絶対にできないコトがゴールなのは、およそ予想がつくと思います。いったいそれは何なのか。1人ひとりの個性と才能を共有するコトだと思います。

☆それは、別に松田先生の授業でなくても了解することは可能なのではないかと言われるかもしれません。対話型の授業、プレゼン、振り返り、コメントのすべての要素が入っている場合はそれは可能です。

☆しかし、講義型の授業では、それは難しいのではないでしょうか。担任の先生は、分かっていると思うでしょうが、松田先生のような授業を通してでなければ、意外にも決定的なことを見逃してしまう場合もあるのです。

☆一般には、学力情報と性格や態度を教師は了解するのですが、性格や態度についてレッテル貼りになる場合が多いし、教科の専門性において優れていればいるほど、レッテル貼りをしていることに気づかないケースが多いのですね。しかし、教師間のコミュニケーションが豊かな学校では、これによって偏った生徒の見方をいつの間にか補正しているので救われているのですが・・・。

☆この補正とはどういうことかというと、最近の言葉で言えば、キャラとキャラクターのGAPがわかるということなのです。このGAPに気づかないと、態度だけ見て、あるいは言動だけ見て、1人ひとりの生徒の個性や才能を想定します。経験からいって当たる場合も多いのでしょうが、外した場合、教師と生徒は互いに信頼しているがゆえに、お互いに気づかないうちに鬱屈した雰囲気になります。先生は君を信じているぞ。先生のことを尊敬しています。なのになぜ何かが違うんだろう。でも互いに信頼し合っているわけだしとなるのですね。

☆パワハラ発言や言葉の暴力など、それはもはや論外で、実は互いに信じ合っているのに、うまくいかないということこそ隠れたリスクなのです。この隠れたリスクが、松田先生の授業で見えてくるわけです。

☆生徒にとって、居場所づくりとは、まさにこの自分のキャラと自分のキャラクターのせめぎあいのなかでやっとのことで生まれるバランスの境地なんですね。自分のキャラクターを前面に押し出せば、他者との関係はあまりに重たくなりますが、キャラクターを隠して、キャラだけで人間関係を造っていくと、自分らしさを本音の部分で出せないわけですから、それはそれで重苦しくなるんですね。自分の中でのバランスと相手とのバランスをとれるようになるためには、自分のキャラとキャラクター、他者のキャラとキャラクターの四肢的なGAPを振り返る仕掛けが肝要なのです。

☆古典的な手法ではジョハリの窓というのがあるのですが、これだけではキャラとキャラクターの差異が見えてこないのですね。

☆というのも、ジョハリの窓が基礎としてきた考え方は、従来のアイデンティティのシェアとかいう話だったと思います。あるいは「エス―エゴ―スーパーエゴ」という構造で語られてきたことかもしれません。しかし、それではかなり抑圧的なんですね。生徒は個性といわれながら、1つの価値観や感じ方、道徳を共有する一元的な同心円の社会構成の中に位置付けられてしまってきたのです。

☆ところが21世紀の社会構成は多元的です。同心円に位置付けるというか鋳型にはめこむことはできなくなっているのです。ここらへんのことをもう少し考えてみましょう。多元的といっても小さな同心円がたくさんできているだけだとしたら、それは悲劇ですから。

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学び野[32]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか④

☆松田先生の授業について、このブログに書きこもうと思った矢先、それまで聴いていたモーツアルトのアダージョ(オーボエなどの曲)のCDを、ブルックナーの交響曲七番のCDに取り替えました。同じアダージョでも重層の響をイメージしながらではないと松田先生の授業は語れないなぁと気づいたからです。

☆授業のテンポとか旋律のイメージは、教師によって違うでしょうが、松田先生の場合はブルックナーの7番かなあと。私が研修でジグゾー法をやるときはモーツアルトの38番か魔笛をイメージしながらやります。ぐるぐるメッソドを使うときはマーラーのシンフォニー5番のアダージョかな。

☆国際教育研究家の岡部憲治さんの授業からは、リヒャルト・シュトラウスのヒーロー。京北学園の校長川合先生の授業からは、ジョン・レノンのイマジン。開成の橋本先生の授業からは、グレン・グールドのバッハの演奏。麻布の校長氷上先生(授業は直接みていないけれど、語り口調や文章を手がかりに)からは、ベートベンのシンフォニー7番のイメージを喚起します。これらはまったくの独断と偏見ですが^^);

08 ☆さて、松田先生の授業についてですが、なぜターニングポイントかということでしたね。日能研編集の「2008年首都圏入試白書」によると、今春の首都圏の中学受験の受験率(受験者÷小学校卒業生)は、20.6%です。なんて感慨深いのでしょう。98年、99年は、それまで右肩上がりで、93年から受験率13%を超えてきていたのに、13%を切る時代を迎えてしまったんですね。

☆そのとき私学の先生方が、いろいろなところで宿泊までして勉強会をして、もう一度13%を超えようと知恵を絞り、多様な自己表現を開始したんです。岡部さんとこのThe授業リンクの事務局をやっているNTS教育研究所の石井さん、今はリクルートのキャリアガイダンス編集で活躍している江森さんといっしょに、セミナーをかなりの回数企画し開催しました。

☆私たちのセミナーや勉強会は、大学の先生や企業人に基調講演を頼むものではなく、私学の先生方に基調講演を頼むものでした。ですから、ビジョンや戦略的な話だけではなく、最前線で役立つ戦術論の話にもなりました。そういうセミナーや勉強会を通して、出会った先生方ともっと本質的な私学の魂を表現しなければという共通意識が芽生えてきました。それがThe授業リンクの前身のCALだったのですね。

☆当時受験率13%にこだわったのは、この地点に到達すると口コミが爆発的に広がる可能性が高いと言われていたからなのです。せっかく13%に到達したのに、それが右肩下がりになりはじめた。放っておくと私学のマーケットが冷え込むという危機感を先生方は持っていたのですね。

☆だから、従来のように宣伝のためのパンフレットを作り、それを読んでいるような学校説明会だけではチェンジできないだろうということになったのです。チェンジはまず方法論や学校同士のネットワーク作りからはじまりました。自分の学校だけでがんばっても、そもそも市場そのものが冷え込んだのではどうしようもない。マーケットの質と量を拡大しようと。

☆そこで合同説明会が花開き、ちょうどホームページという新しいメディアも現れたので、表現のイノベーションも各校がどんどん行っていきました。しかし、量の追求は、学校の場合は限界があります。内発的な成長路線に切り替えるにはどうするか、それが問題だということになりました。

☆それには本質の表現以外にあり得ない。私学の本質を表現する最高のリソースは何か。授業以外にあり得ないではないかというのがCALの出発点でだったのです。当時は誤解も多く、授業を販売促進の材料にするのかという意見も多々ありました。

☆そうではなく質の表現の重要性だったのです。当時の学校選択の指標は、大学進学実績と偏差値という量によるものだったんですね。マスコミもその指標を前面にだしていました。これでは、明治以来、官僚近代に対峙し続けてきたもう一つの近代の理想郷であった私学の精神が、崩れてしまうという危機感が本音の部分であったのです。

☆私学の先生方の努力と国の教育行政の失敗があいまって、受験率はすぐに13%を超えました。同時にマスコミも、まだまだとはいえ、学校選択の指標を量から質にシフトしてきました。「授業」で学校を選ぶという視点で取材をし続ける教育ジャーナリスト鈴木隆祐さんの登場はその象徴です。

☆そして受験率20%を超えました。CALもThe授業リンクとしてステージをチェンジしました。なぜか。20%:80%の論理展開ができるようになったからです(東京都の私学に限れば、2001年以降20%を超えています)。これはやっと私学の教育力が世の中に大きな影響を与えるターニングポイントを迎えたことを意味します。

☆明治以降の日本の教育は、官僚近代教育です。そこで細々と私学は本質的近代の追究を継承してきました。しかし、やっとその流れが大きくなったことを意味します。しかし、そのときに、私学が大学進学実績をアップするための授業をやっているというイメージをもしもマスコミによって表現されたり、私学自ら意図に反してそのような表現をしてしまったら、その影響力を本質的近代の追究に活用できず、振り返れば官僚近代教育を後押ししていたなんてことになりかねません。

☆私学が公立学校よりよいということを言いたいのではないのです。官僚近代教育の閉塞と抑圧に苦しむ子供たちの環境を変えるためのトリガーが、歴史的社会構成上、私学なんだと言いたいだけなのです。しかし、私学が一致団結して、リフォメーションを起こすことは考えられません。あくまで教育ですから、見識と知恵と教養で世界を変えるしかないのです。

☆見識と知恵と教養は授業で生まれます。それぞれの私学が、そして公立が、教育の最前線で、大学受験のための知識や学習指導要領で配列された断片的知識を獲得するための授業を廃し、本質的授業を展開すれば、おのずから世界が変わる20%:80%の論理が展開するときがやってきたのです。

☆松田先生は授業を通して、私学公立問わず共鳴共振の響を伝えているのです。ブルックナーの7番の響にのせて。松田先生は、あのダニエル・ゴールマンも推奨する“RESONANT LEADERSHIP”の持ち主なのですね。<いま・ここで>の世界のターニングポイントは、軍事力や経済力によるものではないのです。知の響を共振し合うことで変わるのです。

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学び野[31]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか③

☆松田先生の授業について、今回は少し違う側面から考えてみたいと思います。限られた授業の中にジグゾー法という対話型(今回のプログラムにはディスカッションまではなかったですが、それも当然活用されます)のプログラムを入れると、通常の講義型の授業にはないロールプレイをする目が必要になります。

☆それは、松田先生がスーパーバイザーだとすると、ほかにアドバイザーが必要になります。各チームで対話が生まれているわけですが、同じレベル、同じ速度、同じ質疑の内容が行われているわけではありません。

☆スーパーバイザーだけでは、チームの状態の違いを把握しにくいので、アドバイザーがチーム活動の時間管理をしたり、様子をスーパーバイザーに連絡するシステムが必要になります。

☆そして、もう一つのアドバイザーが大きなポイントですが、それは授業の参加メンバーには見えない隠れた存在です。松田先生の授業は限られた時間で変幻自在に展開しますから、一冊のテキストを渡して、それで授業すること自体、展開を停滞させます。事前に準備万端整えたプリント類がものをいうわけです。しかし、それは膨大にあるし、使う予定のものが使われなかったり、使う予定にはいってなかったものを使うことになったりするのです。

☆このプロデューサーのロールプレイをするアドバイザーがいなければ、一般にはこのような授業はうまく実行できません。このバックヤードの存在こそ、20%:80%の論理なのです。要するに20%は「出来るヤツ」です。80%はそのマネジメントに従って、与えられた役割をこなせばよいわけですが、20%の「出来るヤツ」は、あらゆる事態を想定し、臨機応変に対応できる戦略的リーダーでなければなりません。

☆松田先生が、ご自分の学校で授業をやるときは、おそらくこの3者のロールプレイを、自分1人でやってのけるのでしょう。だから、他の先生が真似しにくいわけです。また、松田先生も精魂尽きるまで授業にかかわるということになります。

☆公立学校で、本物の総合学習ができにくかったのは、教師1人の能力によるということもあるのですが、体制の問題も大きかったのですね。フィンランドでこのような授業ができるのは、やはり少人数授業ができるということにポイントがあるのかもしれません。

☆ともあれ、今回はそのプロデューサー的ロールプレーをなんなく遂行できた、つまり松田先生と阿吽の呼吸で動けた「出来るヤツ」が、開催校中村中学校にいらしたのですね。それはS先生なんです。劇場にたとえて言うと、中村中の授業やイベント、今回のような催しものは、舞台です。その舞台で俳優たちが見事に演じきれるには、音響やライト、メイク、衣装、小道具、集客、広報などなどトータルプロデュースが「出来るヤツ」が必要です。この「出来るヤツ」こそS先生です。中村中がパワフルなのは、S先生のような教員がたくさんいるということでもありますね。

関連記事)→The 授業リンク -松田先生の授業④-(岡部憲治さんのサイト)

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学び野[30]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか②

☆岡部憲治さんのサイトでも「The 授業リンク 開催 -松田先生の授業- ①」が書きこまれ始めました。岡部さんはご自分の留学経験から松田先生の授業はアメリカのESLの授業に似ていると指摘しています。

☆手法が似ているということも語っているのでしょうが、大事なことはコミュニケーションの前提ということです。

☆松田先生もプログラムの中で、「チームに分かれてそれぞれ話し合うといっても、今日は先生方だからわりとスムーズに語れるわけですが、生徒の場合は、話さない子もでてきます。この生徒がやらされていると思わないようにするのがプログラムの妙技ですね」というようなことを語りましたが、岡部さんはそこに共鳴してブログに書きこんでいるのだと思います。

*松田先生の今回のテーマが「居場所づくり授業への試み -リード・ランからドッグ・ランへの試み- 」と設定されているのには、こういう背景があったのでしょう。

☆コミュニケーションの前提は話したいという欲求があることです。この欲求を生みだす仕掛けをESLの授業ではあの手この手を尽してプログラム化されている。その点が松田先生の授業と共通しているのだということでしょう。

☆自分の関心領域を相手に語ってみるという最初のプログラムもその仕掛けですね。生徒は与えられた課題については操作性を感じた場合、思考はなぜか停まるものです。自分の関心領域については内側からこみあげてくるのですね。

☆しかしそれでもお互い話さなくても以心伝心という状況の場合、口数は少なくなると岡部さんは指摘するわけです。たしかにESLの授業に参加するメンバーは国も文化も違う場合が多いですから、表現しなければ互いを理解することはできないわけです。

☆一期一会です。お互いを理解しようという欲求こそコミュニケーションの大前提ですね。ところが日本ではお互いのことはわかっていると共同幻想があり、それゆえその大前提がないというわけでしょう。そしてなおかつ日本は世界に比べれば相対的に平和です。問題意識は身近なリアルな空間では生まれにくい。

☆隠れたリスクをあえて掘り起こすプログラムが松田先生の授業ということになります。しかもその問題は、保守主義と偏向主義によって、深い地層に埋め込められています。そりゃあ、生徒たちが社会問題に対し無気力になるのも当然というか必然です。今の生徒や若者がたまたま無気力で、互いに傷つけあうことを避ける傾向になっているのではないのです。彼らの生活時間の大半を占める授業の影響力は意外とすごい。そういう話題はあまりでてきませんね。授業は学力低下を回復する装置という側面ばかりがとりあげられていますから・・・。

☆つまり、通常の座学の教科授業の本当の問題点は、生徒たちの問題意識が大学入試にしかないようなプログラムになりがちだということです。いや時事問題をやりますといわれるかもしれません。しかしそれは実際に解決するまでの問題意識を問いません。事実の確認と評論をやって終わりです。なぜ今授業なのか、The授業リンクなのか。学力低下を回復するための授業なんかが目的ではないのですよ。

☆ともあれ当面の目の前の問題は大学入試です。地層深く埋め込まれたリスクについてのセンサーはどんどん鈍感になります。それでは困るのだというのが松田先生の授業だし、岡部さんの指摘するESLのプログラムでしょう。

☆時代を変えるリーダーは、この隠れたリスクに対するセンサーとマネジメントの力が強いのですが、もしかしたら今の日本の授業は、リスクを隠して自分の利益だけを調整するリーダーを育成してしまっているかもしれません。実存的リーダーか損得勘定に長けたリーダーか、松田先生は生徒とともにいつもそこを考えているのです。

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学び野[29]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか①

☆前回の「学び野[28]究極の授業の勉強会 第1回The授業リンク開催」で明大明治の松田孝志先生の授業の重要性について気づいたことを語りましたが、うまく書けませんでした。それでいつものようにつれづれなるままに書いていきながら、着地点を見出せたならと思います。

☆とにかく松田先生の授業は、現代の日本の隠れモダニズムであるポストモダ二ズム・マーケットを変えるヒントがあるという直感を抱いているわけで、そのへんをウダウダ考えてみましょう。

☆ハーバード大学の教授ダニエル・ゴールマンは、EQ(心の知性)で世に知られている脳科学と行動科学をベースにした心理学者です。ゴールマンはジグゾー法を、他者を、彼らというモノから私たちという関係にシフトする手法の一つであると最近の著書「SQ(社会的知性)」で語っています。

☆松田先生の授業の手法の一つに、やはりこのジグゾー法を発展させたメソッドが開発されています。この手法はともすれば知識伝達の有効性や新しい発想に気づく方法として有効などという狭い評価になりがちなのですが、生徒一人ひとりの違いを見える化する方法だということが、ゴールマンのスコープをあてれば見えてきます。

☆さてなにゆえに生徒一人ひとりの違いを見える化することが必要なのでしょう。プレゼンテーションをする自己のアイデンティティの確立のため・・・などというキッズ・マーケットやキャリア・マーケット的発想ではありません。

☆しかし教育のマーケットの問題点は、あきらかに「キャラ立ちブランド形成」の必要性を販売促進しています。簡単に言えば「レッテル貼り」こそブランドだなんて言っているわけで、何か違うんじゃないか、けれども、そういう商売が着実に私立学校に忍び寄っている。松田先生の授業はそういう隠れモダニズム的ポストモダニズム(東浩紀さんたちのポストモダンとは似て非なるものです)の侵食を防ぐ授業になっている。そういう点でまずはターニングポイントなのではと、The授業リンクの勉強会に参加して感じました。

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学び野[28]究極の授業の勉強会 第1回The授業リンク開催

☆昨日(2008年5月19日)、中村中学校で、究極の授業を求めて、教師や教育関係者が50人以上集まりました。講師は明大明治の松田孝志先生です。それにしても私立学校の不易流行を思い知った勉強会でした。

080519 ☆松田先生の授業それ自体が、官僚近代学校の授業とは全く違う、すなわち規律統治型ではなく、やる気や興味、そして知識を想起させる問答型の授業だったという点がまず一つですね。ソクラテスやトマス・アキナスのような問答形式の授業の組み立てなんですね。

☆古代ギリシアにおいてあるいは中世ヨーロッパにおいて、彼らは権力や人間の世俗知や憶測知に対して挑み、多くの人の世界観を変えたのですが、これがおそらく欧米のリベラルアーツのルーツで、松田先生の授業もそこにつながりますね。このことについては、The授業リンクのメンバーどうしで確認し合うチャンスが必要かもしれません。

080519_2 ☆松田先生の授業は決して独断と偏見ではないのです。ある意味小泉八雲のような位置づけでしょうか。夏目漱石の東大の授業は、もともと小泉八雲がやっていたんです。漱石は小説はおもしろいのですが、授業は講義型で、理屈っぽく、一方的で、当時はつまらないという評判だったようです。それに比べ八雲の授業は対話型でおもしろかったと。上田敏は八雲が東大を去ることになって、非常に落胆したほどであったそうですよ。

☆大江健三郎さんは小泉凡さんに「世の中はやっと八雲のものの見方や価値観に追い付いてきたと思います。八雲の研究はこれからです」とエールを送ったということらしいのですが、まさに松田先生の授業に、世の中が追い付いてきたのではないでしょうか。

☆それからたいへんわかりやすい形で不易流行を実感したのは、共立女子の渡辺教頭先生が、実は中村中学校の小林理事長・校長先生とは同窓でかつ同じ専門だったという話や、私は松田先生の教え子で、今ある私学の社会科の教員をやっていますとか、私はこの会の会員のS先生の教え子ですよというような話を一遍にお聞きしたことです。

080519_3 ☆松田先生の授業の批評・分析は、この勉強会に参加していた国際教育研究家の岡部憲治さんがいずれ自らのブログで発表するということなので、私は気づいたことを1つ述べておきましょう。

☆世の中がやっと追い付いてきたのですが、松田先生はまた大きな一歩先に進んでいるのに驚いたのです。その大きな一歩とは、授業の展開やそのノウハウのことではないのです。それは生徒一人ひとりの分析をきっちりしているということです。

☆これは生徒の評価のことではないんですね。1人ひとりの生徒の価値観や認識方法、感じ方を分析できているということです。

☆なになにそんなの当たり前ではないかと反論する方もいるでしょうね。しかし、1人ひとり違ってよいのだから、その違いは気にしないというのが、実は学校現場です。習熟度クラス分けは、1人ひとりの違いに注目しているわけではなく、あくまでグルーピングです。偏差値なんてと言っていながら、わける発想や理屈は同じことです。

☆結局スコアの背後にある1人ひとりの違いを分析できていないのです。そんなことはない1人ひとりの特徴を私はこんなに詳細に了解していると反論されるでしょうが、その了解したことを見える化しているかというとそうではないのですね。それでは分析したことにはならないのです。了解と分析の紙一重の差異。しかしこれが大きな一歩の差異になるのです。ところがしかし、この松田先生の分析手法をただ真似をしてもだめなのです。それは今度は了解にかなわないんですね。

☆松田先生の分析は問答法が前提なんですね。ダイアローグあっての分析ですから、それは統合でもあるんです。地と図の反転の繰り返しがあって分析は生きるのです。松田先生の授業が終わったあとに質問が幾つかでていましたが、噛み合わなかったかもしれません。ものの見事にカント的な質問とソクラテス―ヘーゲル的な応答のすれ違い。

☆The授業リンクの前身のCAL時代の会員は、≪私学の系譜≫のメンバーだけだったのが、新しい授業の勉強会は、より広く会員が集まっています。価値観の多様性がこの勉強会で浮き彫りになったわけです。改めて貴重な機会だと感銘を受けました。

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